第13話 小麦色の爆風と無実の証明
老執事マリウスの出現以降、塔の中の空気は一変した。 彼は常に父バルガン男爵の背後に影のように控えている。 父がエリスに甘い言葉を囁いている時も、癇癪を起こして叫んでいる時も、マリウスは無表情で直立し、その曇った瞳で部屋の隅々までを監視していた。 エリスにとって、それは二重の監獄に閉じ込められたような息苦しさだった。
だが、この閉塞感に縮こまっている時間はない。 スレートとブリックが、街からのSOSを運んできたからだ。
『緊急事態だ、エリス。街のパン屋「ハンス」がリンチに遭いかけてる』 『店が吹き飛んだんだ。ボヤ騒ぎどころじゃない、壁ごと爆発しやがった』 『ハンスは「何もしていない」と泣いてるが、街の連中は「悪魔の火薬を使った自爆テロだ」「保険金目当てだ」と騒いでる』 『俺はハンスを知ってる。あいつは小麦粉に人生を賭けてる馬鹿正直な男だ。店を燃やすはずがねえ』 『だが、火薬もなしに小麦粉だけで店が吹き飛ぶなんてことがあり得るのか? 知恵を貸してくれ』
手紙には、現場の状況が細かく記されていた。 ・爆発は早朝、仕込みの最中。
・窓は締め切っていた(乾燥した風が強かったため)。
・床にはこぼれた小麦粉が大量に舞っていた。
・彼が釜の火を点けた瞬間に、衝撃音と共に店が吹き飛んだ。
エリスは記憶の図書館の扉を開いた。 父が蒐集した書物の中にあった、遠い異国の『産業事故全書』。 彼女は震える手でインク壺を引き寄せた。 これは魔法でも、悪魔の仕業でもない。 不幸な物理現象だ。
『ガエル、それは「粉塵爆発」と呼ばれる現象です』 『微細な粉末が空気中に濃く充満している時、火種があれば、それは火薬と同じような爆発力を持ちます』 『ハンスさんは嘘をついていません。小麦粉が舞う閉め切った部屋で火を使った。それが原因です』 『これを証明するには、小さな実験をしてみせてください。人々は目に見えるものしか信じませんから』
エリスは簡単な実験手順を図解入りで記した。 そして、手紙を小さく折り畳むと、マリウスの監視を欺くための偽装を施した。 彼女は手紙をクルミの殻の中に詰め込み、接着剤代わりの松脂で封をした。 これなら、もし見つかっても「ねずみが餌を運んでいるだけ」に見える。
「頼んだわ、スレート」
灰色の相棒は、重責を理解しているのか、短く鳴いて闇夜へと消えていった。
翌朝、城下町の広場。 パン屋のハンスを取り囲み、衛兵に引き渡そうとする怒れる群衆の前に、ガエルが立ちはだかった。 彼は片手に小麦粉の入った袋、もう片手に松明を持っていた。
「よお、皆の衆。ハンスを吊るし上げる前に、俺の奇術を見ていきな」
ガエルは人々の嘲笑を無視し、エリスの指示通りに動いた。 透明な筒の中に少量の小麦粉を入れ、下から風を送って粉を舞い上がらせる。 そして、そこに小さな種火を投げ入れた。
ボウッ!!
筒の中から爆音と共に火柱が上がり、蓋が空高く吹き飛んだ。 群衆から悲鳴が上がる。
「な、なんだ今のは!?」
「これが『理屈』ってもんだ」
ガエルは煤けた顔を拭いもせず、ニヤリと笑って演説した。 昨夜、エリスからの手紙を読み込み、頭に叩き込んだ知識の受け売りだ。
「小麦粉だって、条件が揃えば火薬になる。ハンスの店は締め切ってた。粉が舞ってた。そこに火がついた。……ただの不運な事故だ。こいつは店を燃やしたかったわけじゃねえ」
人々はざわめき、やがてハンスへの敵意は同情へと変わっていった。 ハンスはその場に崩れ落ち、涙を流してガエルに感謝した。
「ありがとう、ガエル……! 信じてくれて、ありがとう……!」
「礼なら俺じゃなく、知恵の神様に言いな」
ガエルは肩をすくめ、群衆の中に紛れていた「隻眼の女」と目が合った。 最近街に流れてきた傭兵のカミラだ。 彼女は面白そうに口笛を吹き、ガエルに親指を立ててみせた。
その日の夕暮れ。 ガチャリ、と重い開錠音が響き、男爵と執事マリウスが部屋に入ってきた。 男爵は上機嫌そうに、しかしどこか神経質な様子で口を開いた。
「エリス、聞いたかい。街で爆発騒ぎがあったそうだ。下民どもは愚かだ、パンを焼くつもりが店を焼くとは」
男爵は娘の無事を確認するように、部屋の中を歩き回る。 その背後で、マリウスは音もなく窓辺へ移動していた。 彼の視線が、床に落ちていた「クルミの殻の破片」に止まる。 スレートが落としていったものだ。 エリスの心臓が凍りつく。 マリウスがそれを拾い上げ、指先で弄ぶ。殻の割れ口には、封に使った松脂が微量に残っているはずだ。 男爵が振り返った。
「ん? どうしたマリウス。何か落ちているのか」
「……いえ。ねずみが運んできた木の実の殻のようです」
マリウスは表情一つ変えず、殻をハンカチに包んでポケットにしまった。
「不潔な。すぐに捨てろ」
「かしこまりました。……しかし旦那様、本日は街の風が強いようです」
マリウスは男爵に同意しつつ、その視線をエリストールだけに向けた。 男爵は窓の外の景色を見るために背を向けている。 その一瞬の隙に、マリウスの声色がわずかに変わった。
「火の元と、小麦粉の扱いには……くれぐれもお気をつけくださいませ。小さな火種が、全てを吹き飛ばすこともございますので」
男爵は「火事の注意」だと思って頷いている。 だが、エリストールには分かった。 彼は知っている。街の爆発の原因も、解決法も、そしてその情報源がこの部屋から出たことも。 「派手に動きすぎだ」という警告だ。
「……はい、肝に銘じます」
エリストールが深々と頭を下げると、マリウスは満足げに目を細め、再び男爵の影へと戻った。
夜、戻ってきたスレートが運んできたのは、ガエルからの勝利の報告と、ハンスが焼いた焦げていない最高のパンの欠片だった。 香ばしい匂い。 それは、彼女の知識が誰かを救った証の香りだった。 エリストールはパンを口に含み、噛み締める。 マリウスは男爵には告げなかった。 敵か味方かは分からないが、彼はこの「秘密の通信」を黙認し、泳がせている。 その意図が何であれ、今はただ、この勝利の味を二匹のねずみと共に分かち合いたかった。
「……美味しい」
塔の中の孤独な戦いは、まだ始まったばかりだ。
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