第12話 老執事の影と窓辺の囁き
その日、扉が開く音がいつもと違っていた。 重厚な男爵の足音の背後に、足音すら立てない「影」のような気配がもう一つ。 エリストールは反射的に身構え、先日ガエルから贈られたオレンジ色のリボンで結んだ髪を、無意識に手で庇った。
現れたのは、父バルガン男爵と、一人の老執事だった。 名前はマリウス。 かつて祖父の代からこの家に仕えていた古株だが、ここ数年は隠居同然だったはずだ。 白髪を完璧に撫でつけ、背筋は枯れ木のように細いが、槍のように真っ直ぐ伸びている。 その瞳は、感情を映さない曇りガラスのようだった。
「……エリス、変わりはないか」
父の声は、前回よりも少し余所余所しかった。 彼は部屋の中央まで入ってこず、入り口付近で立ち止まっている。 その後ろに控えるマリウスの存在が、父自身の歪んだ衝動を抑え込む「理性の壁」として機能しているようだった。 父は娘に近づきたい欲求と、それを自制しようとする葛藤で、落ち着きなく杖を握りしめている。
「はい、お父様。マリウスも、お久しぶりです」
「エリストールお嬢様、お久しゅうございます」
エリストールが淑女の礼をとると、老執事は深々と頭を下げた。 そして、滑るような動きで部屋に入ったかと思えば徐ろに周囲を検分し始めた。 本棚、テーブル、そして——窓辺のベルベットカーテン。 エリストールの心臓が早鐘を打つ。 カーテンの裏には、ねずみたちが通るためのわずかな隙間がある。 そして、床には微かにだが、彼らが運んできた外の埃や、小さな爪痕が残っているかもしれない。
マリウスはカーテンの裾を、白手袋をはめた指先でそっと摘み上げた。 数秒の沈黙。 その背中は何も語らない。 男爵は娘の顔を見るのに夢中で、執事の行動など気にも留めていない。
「マリウス、もういいだろう。エリスが怖がる」
男爵が苛立たしむも訝しんで声をかけた。 マリウスはゆっくりとカーテンを戻し、主人の元へ戻ろうとする。 その途中、エリストールの横を通り過ぎる瞬間に、彼は足を止めた。 男爵には聞こえない、枯葉が擦れるような低い声が、彼女の耳元に滑り込んだ。
「……窓辺の掃除が甘いようですな」
エリストールが息を呑む。
「メイドどもが失礼いたしました。教育が必要ですね。ただ……」
老執事は、曇った瞳を一瞬だけ細め、エリストールの瞳を覗き込んだ。
「この塔は古く、隙間が多いです。……小動物には、くれぐれもお気をつけを」
それだけ言い残し、彼は何事もなかったかのように男爵の後ろに控えた。 脅しか。それとも助言か。 「気づいているぞ」という警告であることは間違いない。 だが、彼は男爵には報告しなかった。 もし告げていれば、今頃この部屋はひっくり返され、窓は完全に塞がれていただろう。
「行くぞ、マリウス」
「はっ」
重い鉄の扉が閉まる。 エリストールはその場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。 怖い。 父の情欲とはまた違う、冷徹な「管理」の恐怖。 あの老人の目は、すべてを見透かしていた。 ガエルの存在も、ねずみの通り道も、おそらくは彼女の心の内さえも。
その夜。 スレートとブリックが部屋に入ってきた時、エリストールはすぐに彼らを抱き上げ、カーテンの影に隠した。 いつまた、あの「影」が現れるか分からない。 彼女は震える手でペンを走らせた。
『ガエル、警戒レベルを上げてください』 『父が新しい執事を連れてきました。マリウスという老人です』 『彼は貴方たちの痕跡に気づきました。父には告げませんでしたが、私に釘を刺していきました』 『彼は敵か味方か分かりません。でも、侮れない相手です』
塔の下、赤竜の爪痕亭。 手紙を読んだガエルは、口元から笑みを消した。 マリウス。 その名は、裏社会の古い人間なら一度は聞いたことがある。 かつて「男爵家の懐刀」と呼ばれ、領地の不穏分子を音もなく処理していたという伝説の執事だ。 隠居したと聞いていたが、まさかこのタイミングで復帰するとは。
「……厄介な番犬が出てきやがったな」
ガエルは手紙を蝋燭の火にかざし、完全に燃やした。 証拠は残せない。 男爵の暴走も怖いが、マリウスのような「プロ」の介入はもっと質が悪い。 力押しや小手先の誤魔化しは通用しないだろう。
「だが、一度見逃したってことは、つけ入る隙はあるってことだ」
ガエルはブリックの頭を撫でながら、思考を巡らせた。 男爵はエリスを「所有物」として見ているが、マリウスは「男爵家」そのものを守ろうとしているはずだ。 そのズレを利用できないか。
「面白くなってきやがった。……エリス、ここからが本当の知恵比べだぜ」
ガエルは返事を書いた。 励ましの言葉と共に、今まで以上に慎重な、新しい「暗号」を使った通信方法を提案するために。 塔の上に落ちた老執事の影は、二人の秘密の絆を試す、最初の大きな試練となろうとしていた。
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