コロナ禍前
あなたの夜は虹色だった(1/4)
加藤ゆかは自分の恋愛歴を話せない。リバだし、性的アプローチは応え続けてきた。その相手が不潔だったら断るけど。いろんな人に執着されてきたし、慌てて逃げた夜もある。そんな彼女でも一つの線引きがあった。職場の人間と年下には手を出さない。そんな彼女の価値観が揺らぐ。
特別養護老人ホーム「共存園」に介護士として派遣されて半年。加藤ゆかは職場の人間関係とうまく渡り歩いてきた。1週間前に配属された新人の桂木えりとも仲良くしている。
本日も桂木えりが同じシフトで出勤してきた。
「おはようございます」
「あ、おはよう。えりちゃん」
加藤ゆかは身長の小さい桂木えりを愛くるしい子どものように感じていた。桂木えりの身長は165センチで、加藤ゆかは180センチある。
「もう仕事には慣れた?」
「全然うまくいきません。加藤さんの足引っ張ってますから」
「新人は誰でもそうなるでしょ。えりちゃんって、社会人になって数カ月しか経ってないんだから」
「何かもっと自分ってテキパキ出来ると思ってたんですけどね」
二人の話しているあいだに、他の職員が素通りする。挨拶してきたから、二人も返す。
「加藤さん。桂木さん。おはようございます」
「おはよー」
桂木は一呼吸おいて魚の呼吸みたいに口をパクパクさせる。
「お、おおおおはようございます」
「……」
照れ隠しを隠すように加藤へ言い訳を取り繕う桂木。
「ま、まだ緊張します!」
「同じフロアの人でも?」
「だって、私は加藤さんの後ろをついているだけだから。他の人とまだ話せていないです」
「歓迎会とかなかったの?」
「ありませんでした」
「あれ、未成年?」
「いえ、今年で20歳です」
加藤は職場の人間と居酒屋に行く。桂木も誘おうと考えていたが辞めることにした。そんな思考の変化を察したのか、桂木はあたふたして訂正する。
「加藤さんなら歓迎ですよ!」
「ありがとう。こんど誘うよ」
「ぜひ! いつでも良いです。今日でもいいです」
「今日行けたらいいけど」
元気な後輩を引き連れてフロアに入る。
今日は昼から夕方までの出勤だった。シーツを交換し、排泄介助やおやつ介助、食事介助が待っている。
新人研修の一環として、ゆかは仕事を後ろから診てもらっていた。
えりはメモ帳に先輩の行動を記述し、休憩時間や空いている時間に質問をまとめてぶつける。シーツ交換や食器洗浄はやらせてもらっていたが、直接的に入居者と関わる機会は少なかった。
「えりちゃん。晩ごはんの介助やってみようか」
シーツ交換も終わって16時半。日誌を閲覧しながら彼女に指示した。今のフロアはオヤツを食べる人もいればテレビを気ままに見てる人もいる。穏やかな時間帯が流れているのは、普段よりも新人のためにシフトが増やされてるからだった。
返事がなくて、パソコンから目を離した。桂木はメモ帳の手を止めている。
「は、はい」
「なに。緊張してる?」
「もし、詰まらせたらどうしようって」
「ずっとメモして見てきたじゃん。大丈夫だよ」
それに、ゆかは自分の担当する人物の一人を見てもらうだけで、放任するつもりはない。
何かあれば助けると一言加える。
「頑張ってやります」
「うん。やってみなよ」
リビングルームで入居者たちが1つの机を4人が囲むように座っている。当直の職員1人につき4人を担当していた。そのなかで、ゆかだけは3人の入居者と1人の新人の面倒を見ている。
新人は口を開かない高齢者に手を焼いていた。彼の前に出されているのはサンマの塩焼きとお米とみそ汁。それを嚥下しやすいようにとろみが付けられている。シリコン製のスプーンで食べやすい大きさにしたサンマを運ぶ。電車内で迷惑な乗客を見つめるような目つきで睨まれていた。それに対して、彼女は話を振る。
「こ、ごごかこごはんどうですか。あの一度だけでも」
いま初めての食事介助とコミュニケーションに苦戦している。
言葉を尽くせば相手は聞いてくれるだろうという信念が、まるで空洞に石ころを落とすような空洞さを生む。
シリコン製のスプーンをゆかは持つ。自身の担当している1人を介助しながら、もう1人が落としそうになっている食器をお盆の上に戻してあげる。汚れていない面で、容器内に指が入らないように配慮した。そのまま、キャスター付きの椅子でえりの背後に寄る。
「ちょっと貸してみて」
「わかりました」
ゆかの背後に回る新人は、胸のあたりからメモ帳をひきだす。教育係の背中から、右半身にキャスター付き椅子のままころころと移動する。
横顔の先輩はスプーンを手にして、しっかりと利用者と視線を交差させた。相手は口を開かなくても、相手を人だと認識している。
「あいうえお」
「……」
「真似して。あいうえお」
「……あいうえお」
おの発音すぐにスプーンを入れる。彼は口内のご飯を咀嚼して飲み込む。その後もゆかは発音練習の要領でご飯を運んでいく。その間もほかの担当者に滞りがないか気配りした。
えりは椅子で周囲を観察する先輩の背中を見つめる。後頭下にまとめた黒髪が犬の尻尾みたいに揺れていた。
メモ帳にえりはペンを立てる。先輩の動きを文字に起こそうとしても、メモ帳は白紙のままだ。その合間に、ゆかの後ろ髪からチラチラ色が見えた。目を擦るえりは光の反射が変わらないことで、錯覚じゃないと察知した。黒髪の裏に他の色がある。
彼女の興味が変わるころ、ゆかは食事介助を進めていた。ご飯を食べさせてあげていると、後ろの新人を忘れてしまう。彼女は入居者から目を離さないまま説明した。
「桂木さん。後で説明するけど、こういうふうに口を開けて貰う方法があるの。同じやり方で試してみて」
「わかりました」
そのままスプーンを手渡すゆかは、後ろに回って、他の介助に戻った。後ろから発語体操を催促する声がして、咀嚼音がする。新人は施設に就職して初めて食事を食べさせることができた。
自力で食べられる入居者はご飯を食べ終えた。食器を置いてご馳走様でしたと合図する。もう一人の食事介助も終わるところ。自走できる人は、自分で車いすを回して部屋に戻った。
入居所のエプロンを外した。エプロンで、机のあいだにこぼした食べかすを包む。配膳台横のバケツに渡し、自走不可な入居者を介助した。ゆから車椅子を押しながら、腰を半分ひねって柔らかな音声で呼びかける。
「えりちゃんまた何かあったら呼んでね!」
ゆかに釣られてえりの声も高くなる。彼女は一人で男性に食べさせていた。教わったことをためしながら彼女は続けている。
入居者の扉をあけたままで口腔ケアに入った。口を開けさせて歯を磨いていく。素直な入居者を相手にすると、ゆかは次の仕事に移すための思考を働かせることができた。ベットに寝かせたゆかは部屋から出てきて、えりの確認をする。
その時だった。「わっ!」と、桂木が驚いた声を上げる。
入居者は口に含んだご飯を噴き出していた。喉に詰まった様子はなく、反抗心でつばを吐くように机に撒いている。
「吐き出すのはダメでしょ。汚いよ」
「……」
「もういらない?」
彼は頷くので立ち上がらせた。新人のえりは汚れた顔のままゆかの行く末を待っている。その気が散った彼女を起こすように指示を出す。
「顔に汚れがついている。 拭いてきなよ」
「え、は、はい」
桂木えりは初日の緊張感を悪い意味で取り戻してしまったみたいだ。洗顔に行く彼女を見送って、介助を終わらせた。
入居者たちを布団の上に寝かせるか、テレビが見えるようにイヤホンを付けてあげる。自分の時間になった人たちのオムツや排泄介助を済ませ、食器を洗った。
机を拭いていると桂木が返ってきた。彼女は先ほどの失敗を引きずってる様子だった。思ったことが顔に顔に出やすいタイプだ。
「桂木さんごめん! 私の指示が足りていなかった」
「いや、もっと工夫するべきでした」
「大丈夫?」
大丈夫かという質問に頷いて用意された布巾を拭いた。ゆかは仕事を委託して日誌の記入に行く。仕事中の彼女にふきんを使いながら聞いた。
「加藤さん。私はずっと同じウソをついてご飯を食べさせました。確かに食べてもらわないと栄養がなくなるのはわかります。でも、無理に食べさせるのは良いことなんでしょうか」
タイピングの手が止まる。
他の職員が食器の洗う音がした。居室から立ち上がる人もいない。
「食事の摂取量をいつも管理してるよね。それから点滴やほかのやり方を探したりする。本人の意志に合わせてご飯を食べさせないと体の免疫力も落ちる。もちろん、全部無理に食べさせる方法はよくない」
加藤ゆかは日誌を書き始めた。机を拭き終えた彼女はエプロンと同じ洗濯機に入れるまえで、助言を待つ。
「この仕事はアドリブでウソをつかなくちゃいけないときがある。私がやっている仕事はそういうことかな。まずは、健康な生活を送ってほしい。そのために出来ることはやりたい。ずっと大変な生活を送ってきた人たちの意思を尊重しつつも、本人のためにならないならそういうことも言う」
仕事が終わり、夜勤の人に、吐き出したことを説明し、日誌にも記入した。片付けを終えて、更衣室に向かう。
加藤ゆかは若者が苦手だ。言葉を詰まらせるほどの前のめりさに、自分の価値観を試されている気がするから。簡単にこなせるほどの経験をつめていなかった。あの返答が、正しかったとは思えない。加藤は桂木にした質問を1番自分が食らっている。この仕事を長期的に支援する仕事だと分かっていても、矛盾があるのではないかと、ぐるぐる考えてしまう夜がある。
加藤は右手の親指で眉間を揉んだ。
「飲みに行こうかな」
加藤はスマホを取り出した。
増井に連絡を入れても既読はつかない。
仲山は3度目の仲違い中だからブロックしている。
着替え終わって外に出た。駐輪場に向かっていると、自転車置き場に立ち竦む人がいる。むやみに近づくと、桂木がいた。
「自転車、こわれましたぁ……」
「うちの車に乗ってくる?」
彼女を乗せて帰ることにした。
それが、二人の知らない夜の始まりだった。
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