第五話 心臓への階梯、食らう者たちの断末魔
垂直に切り立った血管の壁を、私は指先を血に染めながら登っていた。
由良府(ゆらふ)の中心にそびえる巨木、その「臓器の塔」は、上層へ向かうほどにその脈動を激しくし、周囲の大気を熱い脂の霧で満たしていく。もはや空気ではない。肺に吸い込むたびに、気管支がべっとりと粘つく肉の粒子でコーティングされ、呼吸のたびに「ヒュー、ヒュー」と、壊れた鞴(ふいご)のような音が胸の内で反響した。その音さえも、この巨大な樹が奏でる、死と再生の不協和音の中に吸い込まれて消えていく。
一歩、指をかけるたびに、樹皮の隙間から「髄」のような熱い液体が噴き出し、私の掌を、爪の隙間を、容赦なく火傷させる。だが、その痛みこそが、私の脳に「生きている」という最低限の信号を送り届けていた。記憶を失い、幸福の概念すら剥落した私にとって、苦痛だけが唯一、私がまだ肉体を持った人間であることを証明する最後の細い糸だった。いや、もはやその糸さえも、上層から漂ってくる、脳を直接溶解させるような芳香によって、じわじわと焼き切られようとしていた。
見上げれば、漆黒に染まった瑠璃色の空を背景に、あの巨大な「心臓」が、狂おしいリズムで収縮を繰り返している。
その巨大な実の表面には、無数の「目」のような斑点があり、それらが一つひとつ、意志を持って私の動きを、私の欲望を、私の絶望を監視しているかのようだった。その視線は、私の内臓の奥底までを透視し、私がどれほどの「美味」をその空っぽの魂に詰め込もうとしているのかを、嘲笑(あざわら)いながら値踏みしている。
「……待っていろ。すぐに、お前を解体してやる。お前という神を、私の一部にしてやる」
私の声は、もはや人間のそれではなく、錆びた包丁が石を擦るような、耳障りなノイズへと変質していた。言葉の一つひとつが、肺に溜まった脂の滓を吐き出すように、重く、濁っている。
階梯を登る私の背後には、市場(バザール)から這い上がってきた亡者たちの影が、巨大な百足(むかで)のように連なり、蠢いている。彼らは自らの尊厳を喰らい尽くし、もはや形を保つことすらできなくなった、欲望の肉塊だ。ある者は骨が突き出した腕を無理やり血管の壁に突き立て、ある者は歯を剥き出しにした口で、この樹の「高次の肉」を、その滴る汁を求めて、仲間の背を踏みつけながら緇衣(しい)の底から這い上がってきている。
「料理人よ! 俺に、俺にあの肉を食わせろ! 記憶なんて、もうどこにも残っていないんだ!」
「その包丁を貸せ! 自分で自分の腹を裂いて、あの拍動する心臓を詰め込みたいんだ!」
下層から聞こえる彼らの絶叫は、由良府の静寂を切り裂く祝詞(のりと)のように、私の耳を汚していく。その声は、かつての私が四川の厨房で聞いた、客たちの「美味しい」という歓喜の声のなれの果てだった。
私は、追いすがってくる一人の貴族――もはや顔の半分が溶け落ち、金色の脂が涙のように、膿のように流れている男――の額を、反射的に踏みつけた。男の眼球が、踏みつけられた圧力で弾け飛ぶ。しかし、男は悦悦とした笑みを浮かべ、その飛び出した自分の眼球さえも食おうと空を切る顎を動かしながら、そのまま数千尺の下界へと、白銀の塩の砂漠へと堕ちていった。その落下すら、彼にとっては「重力という名の加速する快楽」を喰らう行為に見えた。
ようやく、私は「心臓」の直下、最初の弁膜が波打つ、巨大なクレーターのような踊り場へと辿り着いた。
そこは、生暖かい風が渦巻き、周囲の血管壁からは絶えず、熟成しきった腐肉の匂いと、生まれたての赤子の肌のような、無垢で、かつ残酷な匂いが入り混じって漂っている。
そこには、一人の老人が、巨大な石のまな板を前にして、石像のように座っていた。
老人の皮膚は、この樹と同じく石化し、血管の代わりに紫色の不気味な蔦が、彼の骨格を締め上げるように全身に巻き付いている。その瞳はなく、両の眼窩からは、真っ黒な「墨」のような、あるいは腐敗した思考の残滓のような液体が、絶えず、音もなく溢れ出していた。
「……来たか。四川の誇りを捨て、空虚という名の怪物に成り果てた、あわれな料理人よ」
老人の声は、喉を通したものではない。大地の底から響く、巨大なプレートが軋み合う振動そのものだった。その振動が私の骨を震わせ、胃袋を裏返そうとする。
「ここから先は、調理ではない。供犠(くぎ)だ。お前は、自らの魂という名の薪(まき)をくべ、この世界で最も『純粋な絶望』を完成させねばならぬ。それができぬなら、お前自身がこの心臓の、永劫に終わらぬ飢えを癒やすための、新たな肥やしとなるだけだ」
私は何も答えず、背負っていた鉄鍋を、地響きを立ててその踊り場へ下ろした。
目の前のまな板には、既に、この世のものとは思えない「食材」が置かれていた。
それは、実体のない「影」だった。
樹の心臓が発する強烈な、紫がかった光によって地面に焼き付けられた、死者たちの無念、飢餓、執着。それらが物理的な質量を持って、ドロリとした黒いゼリー状の物質として、まな板の上でのたうち回っている。それは触れるだけで、指先から「悲しみ」を吸い取られ、代わりに「底なしの空腹」を注入されるような、呪われた物質だった。
「これを……調理しろと言うのか。この、実体のない呪いを」
「左様。由良府の究極、それは形ある肉や野菜を食らうことではない。形なき概念、すなわち『存在の完全なる欠落』を味わうことだ。お前が四川で磨いた、その錆びついた技術を見せてみろ。さあ、始めろ。お前の包丁は、影を、そして己の過去を斬れるか?」
私は、腰からゆっくりと柳刃を抜いた。
刃先が、踊り場を支配する「冷たい熱」によって、白銀から青紫色へ、そして死体の唇のような不気味な紫色へと変色していく。
私はまず、その「影のゼリー」を、薄く、紙よりも、細胞の壁よりも細かくスライスし始めた。
包丁が影を裂くたびに、空間そのものが、物理的な境界を失って悲鳴を上げる。私の脳内には、私のものではない、無数の見知らぬ誰かの断末魔が直接流れ込んでくる。
愛する者に裏切られ、毒を盛られた王の、舌を焼くような怒りの味。
飢えの果てに、我が子の柔らかな肉を、泣きながら食らった母親の、喉を通らぬ嗚咽の匂い。
王座を追われ、泥と虫を啜りながら、かつての栄華を夢見た男の、砂利のような虚無の感触。
それらの「人生の極北にある澱(おり)」が、私の刃によって微細に解体され、一つの新たな宇宙へと、一皿の料理へと再構築されていく。
私は、自分自身の左手の指先を、一切の躊躇なく石のまな板に叩きつけた。
「カツン」という、あまりにも軽い、乾いた音が周囲に響く。
私の指が、一本、また一本と跳ね、まな板の上を転がる。
噴き出す鮮血は、しかし赤くはなかった。それは、由良府の空と同じ、濁った瑠璃色に変色していた。私はその自分の血を、そのまま影のスライスに塗り込んだ。
血という名の「生への執着」が、影という名の「死の安らぎ」と混ざり合い、まな板の上で、パチパチと紫色の火花を散らしながら、禁忌の融合を果たしていく。
「……いいぞ。いい狂気だ、若造。料理人は、自らを喰らわせて初めて、神の厨房に立つ資格を得るのだからな」
老人が、歯の一本も残っていない、暗黒の口腔を開けて笑った。
私は、由良府の地脈、その地獄の深淵から直接引き出した、青い「零度の炎」を鍋の下に熾(おこ)した。
鍋の中には、これまでに採取してきた「心臓の原液」、砕いた亡霊の涙の結晶、そして私の、まだ体温を失っていない肉の一部を、一気に投入した。
沸騰が始まる。
しかし、そこから立ち上るのは、人間の食欲をそそるような、芳しい香りなどでは断じてなかった。
それは、人間の嗅覚という感覚器官そのものを根底から否定し、破壊するような、絶対的な「無」の香り。
嗅いだ瞬間に、肺胞が恐怖で収縮し、心臓が停止しそうになるほどの、暴力的なまでの質量を持った「虚無」の香り。それは、宇宙が始まる前の、あるいは全てが終わった後の、何も存在しない冷たい闇の匂いだった。
私は、執拗に、機械的に、そして陶酔しながら鍋を回し続けた。
記憶を失い、名前さえも霧の彼方へ捨て去った私の肉体が、徐々に、内側から異常な熱を帯びていく。
私の体温が、そのままスープの熱源となり、私は自らの命という燃料を燃焼させて、この究極の一椀を作り上げていた。私の皮膚は、霊火の青い反射で鱗のようにひび割れ、そこから光り輝く脂が滴り落ちる。
スープは次第に、異常なまでの透明度を増していった。最後には、鍋の底に敷いた黒い影さえも、その向こう側の地獄さえも突き抜けるような、水晶のごとき透明な、重力さえも失ったかのような液体へと変貌を遂げた。
だが、その液体の一滴の中には、由良府に堕ち、絶望し、そして喰らわれていった数万の魂の、全ての苦悶と、全ての快楽が、極限まで圧縮されている。
「……完成だ。これを、喰らえ」
私の声は、もはや砂漠で乾いた石のように、カサカサに枯れ果て、崩れ落ちていた。
一椀の、宝石のように美しい透明なスープを、私は老人に差し出した。
私の視界は既に激しく霞み、意識は肉体という檻から抜け出そうとしていた。立っているのが不思議なほどに、私の魂は摩耗し、消失しかかっていた。指は欠け、腕の皮膚は霊火によって黒く炭化し、そこからはもう痛みさえも感じない。だが、私の瞳には、かつて四川の青い空の下で抱いていたどの夢よりも明るい、そしてどの地獄よりも冷酷な、「真理」の光が宿っていた。
老人は、その一椀を、震える石のような手で恭しく受け取った。
彼はゆっくりと、その透明な毒を、あるいは至高の救済を、自らの喉に流し込んだ。
その瞬間。
老人の全身を覆っていた石の皮膚が、内側から凄まじい圧力で爆発するように、粉々に剥がれ落ちた。
眼窩から溢れていた墨の液体が蒸発して消え、その暗黒の奥に、数千年ぶりに、人間の、いや、神の「光」が宿る。
「……ああ……。これだ……。この、救いのない旨さこそが……神が我ら人間に隠した、本当の罰(バツ)なのだな。そして、唯一の、残酷な慈悲なのだ」
老人は、一筋の、本物の、熱い涙を流した。
その涙が地面の塩の砂漠に落ちた瞬間、由良府全体を根底から揺るがす、巨大な、物理的な衝撃を伴った咆哮が上がった。
天に浮かぶ「心臓」が、これまでにないほど激しく収縮し、その表面にある数万の「目」が、一斉に、剥き出しの敵意と抱擁を持って、私を見開いた。
心臓が、内側から割れる。
そこから現れたのは、肉でも臓器でも、血でもなかった。
眩いばかりに輝く、しかしどこまでも地味で、どこまでも根源的な、一粒の「土」。
伝説の『土の心臓』。
それは、この世の全ての生命の味を記録し、それを何度も、何度も再生させる、食の起源そのもの。宇宙が開闢(かいびゃく)した際に、最初に生まれた「空腹」の結晶。
私は、震える足で、一歩一歩、その光り輝く『土の心臓』へと歩み寄った。
私の背後では、亡者たちが階段を埋め尽くし、私の作ったスープの残り香を、その一滴を求めて、凄惨な共食いを始めていた。
噛み砕かれる頭蓋骨の音、引き裂かれる生爪の音、啜られる脳髄の音。
それが、この荘厳な階梯における、最高の、そして唯一のBGM(伴奏)だった。
「……さあ、喰らわせてやる。この世界の、全ての始まりと、全ての終わりを。私が、私という概念を、この土に混ぜ合わせてやる」
私は、残された右手の包丁を、その光り輝く中心部へと突き立てた。
そして、その『土の心臓』を、自らの口へと、迷うことなく運んだ。
視界が、真っ白に、あるいは真っ黒に反転する。
私の脳内に、かつての四川の風景が、母の優しい笑顔が、師匠の厳しい怒声が、一瞬だけ、かつてない鮮明さで蘇り――そして、それら全ての物語が、感情が、人生そのものが、一つの「絶対的な味」へと変換され、永遠に消滅した。
私は、神を喰らったのではない。
私が、神という名の「巨大な、永劫に終わらぬ胃袋」に、ようやく、本望のままに飲み込まれたのだ。
私は今、翠(みどり)の嵐の中で、一皿の完璧な「無」となっている。
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