第12話 初期化の境界線(リセット・フロンティア)
世界は、剥き出しの真実という劇薬に耐えきれなかった。
路上では、スマートフォンの画面を突きつけ合いながら罵り合う者、絶望して座り込む者、そして、溢れ出した他人の悪意に耐えきれず耳を塞いで叫ぶ者たちで埋め尽くされていた。
この街から「プライバシー」という概念は消滅し、全住民の意識が、ひとつの共有ドライブとして連結されてしまったのだ。
だが、その狂騒の中心に立つ柚月だけは、凪のような静けさを纏っていた。
「ねえ、航平くん。気づいている?」
彼女は、空中に浮かぶ不可視のディスプレイを操作するように指を動かす。
僕の視界に、ひとつの不自然な「グラフ」が表示された。
「街中のリソースが解放されたのに、まだ一点だけ、莫大なデータが『ロック』されたままの場所がある。……君の心の中だよ」
ドクン、と心臓が跳ねた。
僕のスマートフォンが、今まで聞いたこともないような不協和音を奏でる。
『警告:ルートディレクトリへの不正アクセスを検知』
『ファイル名:10年前_崖の上_未公開ログ.raw』
「……やめろ」
「どうして? みんな自分を晒したんだよ。美月ちゃんも、大輝くんも。そして、この街の赤の他人たちも。君だけが『管理者』の席に座り続けるのは、不公平だと思わない?」
柚月の背後の空が、ひび割れるように裂けた。
そこから漏れ出すのは、漆黒のノイズ。 ……。
……。
意識が、強制的に「過去」へとダイブさせられる。
十年前の、あの湿った空気。
崖の縁に立つ、湊。
僕の記憶では、湊は絶望して自ら足を踏み外したはずだった。
颯太がボタンを押したのは、その「事実」を隠蔽するためだったはずだ。
だが、今、脳内に直接流れ込んできた『未公開ログ』の映像は違っていた。
湊は、笑っていた。
そして、僕の手を握っていた。
『ねえ、航平。……君なら、分かってくれるよね』
湊の声が、今の僕の耳元で再生される。
『僕を消して。君の「理想の世界」の邪魔になるなら、僕というバグを、君の手でデリートしてよ』
映像の中の「僕」は――。
泣きながら、湊の手を振り払ったのではなかった。
僕は、湊の背中を押した。
いや、それよりも残酷なことをした。
湊が掴んでいた「現実」というセーフティネットを、僕が自らの意思で切断したのだ。
「……僕が」
膝をついたアスファルトが、デジタルの塵となって崩れていく。
「僕が、システムの『最初のエラー』だったんだ」
湊を殺したのは、美月の唆しでも、大輝の黙認でも、颯太の隠蔽でもない。
湊の存在が、自分たちの「完璧な友情」という物語に影を落とすことを恐れた僕が、彼を『ゴミ箱』に放り込んだ。
共有ドライブを作ったのは、柚月かもしれない。
けれど、その中に湊を閉じ込め、十年間鍵をかけ続けていたのは、僕自身だった。
……。
……。
世界から、音が消えた。
「正解」
柚月が、僕の目の前でしゃがみ込んだ。
彼女の瞳には、今の僕の無様な姿が、完璧な高解像度で映っている。
「君が自分の罪をデリートしたから、世界に『空白』が生まれた。その空白を埋めるために、システムは作動し続けた。……湊くんを復元し、代わりに誰かを消すことで、無理やり整合性を取ろうとしていたの」
街のノイズが、一段と激しさを増す。
人々の叫び声が、ひとつの巨大な「意思」となって空に渦巻いている。
『初期化(リセット)を実行しますか?』
僕のスマートフォンの画面に、最後にして最大の選択肢が浮かび上がる。
『YES:世界を十年前の「あの日」に戻す。ただし、全員の記憶は失われ、湊は死ぬ。』
『NO:このまま「共有」を続け、地獄の真実の中で生きる。』
柚月は、僕の手に自分の手を重ねた。
「YESを選べば、君はまた『何も知らなかった善人』として生き直せるよ。美月ちゃんも、大輝くんも、颯太くんも。みんな元通り。……湊くん一人がいなくなる、あの平和な世界にね」
画面のボタンが、誘惑するように点滅する。
これを押せば、今のこの苦しみも、罪悪感も、すべて消えてなくなる。
だが。
……。
……。
不意に、スマートフォンのバイブレーションが振動した。
通知ではない。
ボイスメモの自動再生。
『……航平。……聞こえる?』
それは、ゴミ箱の底に入れられた颯太からの、最後の手紙だった。
『おれを、戻そうとするな。……それより、その「気持ち悪い真実」を、一生抱えてろ。それが……おれたちが、湊にできる、唯一の等価交換だ』
ノイズ混じりの声が、僕の魂を繋ぎ止める。
僕は、震える指を動かした。
選んだのは――。
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