第19話
年上の侍女に呼び止められたのは、その直後だった。
「ネメシア、悪いけれど紅茶をお願いできる?」
「はい」
私は銀のポットとカップを受け取る。
湯気の立つ液面は澄んでいて、香りはいつもと変わらない。
―――変わらない、はずだった。
「主役の方へ」
そう促され、私は頷いた。
祝宴のざわめきに紛れるように、人の流れに沿ってルミナのもとへ向かう。
「ルミナ様、お茶を」
差し出すと、彼女は嬉しそうに微笑み、受け取った。
「ありがとう、ネメシア」
その声は、いつも通りだった。
ルミナは一口、喉を潤すように口をつける。
「おいしい―――」
ほんの一瞬、動きが止まる。
そして、喉を押さえる仕草。
「……っ」
ルミナの顔色が、急速に落ちる。
血の気が引くのが、目に見えてわかった。
「ルミナ様?」
呼びかけるより早く、彼女の手からカップが滑り落ちる。
床に当たる音が、やけに大きく響いた。
―――おかしい。
香りも、色も。何一つ異常はなかったはずなのに。
ルミナは息を整えようとして、うまくできずにいる。
「…ネ、メシ…ア……」
その声が、かすれていた。
胸の奥が、冷たく沈む。
―――これは、ただの体調不良じゃない。
私は視線を、さきほど紅茶を渡してきた侍女のいた方へ向ける。
―――そこには、もう誰もいなかった。
「ルミナ!!!」
サビーナがいち早く駆け寄り、口元に血をにじませるルミナの身体を支える。
理解が、遅れて追いつく。
あの紅茶に、何かが入っていた。
そう気づいた時には―――
もう、後戻りはできなかった。
「―――何があった」
公爵が現れたのは、悲鳴と混乱が広がり始めた直後だった。
低く、感情のない声。それだけで、周囲は静まり返る。
サビーナが震える声で答えた。
「ルミナが……お茶を飲んだ直後に…」
公爵の視線が、ルミナへ向く。
蒼白な顔、乱れた呼吸、口元に残る赤。
一瞬で状況を理解したのだろう。
公爵は一切声を荒げなかった。
「医者を呼べ。今すぐにだ」
短く、的確に命令。
「それと―――」
その視線が、私へと移る。
「その女を拘束しろ」
空気が、凍った。
「……っ」
私は言葉を失う。
否定も、弁解も、許される余地はなかった。
二人の使用人が、私の両腕を掴む。力は強くない。だが、逃げ場はない。
「…おね、えさま……な、い…」
ルミナのかすれた声が聞こえた。けれど、その声は咳に途切れ、言葉にならない。
私は、ただ彼女を見ることしかできなかった。
―――私が、運んだ。
その事実だけが、胸の奥で重く沈む。
ほどなくして、医師が駆け込んできた。
「毒の可能性が高いです」
医師の手は止まらなかった。
脈を取り、薬を追加し、呼吸を確かめる。
だが、ルミナの顔色は蒼白なままだ。
「…反応が弱い」
医師の声が、わずかに沈んだ。
「毒は抑えていますが、体が耐えきれていない。このままでは―――」
言葉の続きを、誰も求めなかった。
ルミナの胸が、ひくりと大きく上下する。
「…くるし……」
その声は、ほとんど息に近い。
サビーナが、彼女の手を強く握りしめる。
「大丈夫よ、ルミナ。すぐ良くなるわ」
けれど、握り返されることはなかった。
その瞬間だった。
ルミナの身体を、まばゆい光が包み込んだ。
部屋の空気が、ふっと温度を帯びる。
徐々に光は収まり、冷えきっていたはずのルミナの手に、ゆっくりと温もりが戻っていく。
医師ははっと息を呑み、しばらく言葉を失ったままルミナを診ていた。
脈に触れ、瞳を確認し、胸の上下を確かめる。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……毒の反応が、消えています」
その一言に、室内の空気が凍りついた。
「体内から、完全に抜けています。先ほどまであったはずの毒が…ありません」
信じられない、というように医師は小さく首を振る。
「……よか、った…」
サビーナ様は、医師の言葉に張り詰めていた表情をわずかに緩めた。
そして、力の抜けたルミナをそっと抱き寄せる。
「これは…解毒ではありません。治療です。それも、極めて高度な」
医師は公爵に向けて、慎重に言葉を選ぶように説明をしていた。
その意味を、誰もがすぐには理解できないまま―――
ルミナの身体から、ゆっくりと力が抜けていった。
「…ねむ……い……」
掠れた声が、そう零れた。
ルミナは抵抗することなく、サビーナに身を預ける。
その瞼が、ゆっくりと閉じていった。
「力を使い切ったのでしょう」
医師の声は、先ほどまでとは違い、穏やかだった。
「命に別状はありません。ただ…深く眠るでしょう。しばらくは、目を覚まさないはずです」
ルミナは小さく息を整えながら、静かに眠りについた。
まるで、何事もなかったかのように。
―――本当に、よかった。
私は、胸の奥に溜まっていた息を、そっと吐き出した。
そのときだった。
視界の端に、あの年上の侍女の姿が映る。
「……おま―――」
声にしようとした瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
頬の痛みが引くより早く、低く抑えた声が室内に響いた。
「黙れ」
その一言で、空気が張り詰める。
公爵はルミナの眠る姿を一瞥し、次に私へ視線を向ける。
その目には、怒りも動揺もない。
ただ、裁く者の目だった。
「紅茶を運んだのは、お前だな」
「…はい」
喉が、ひりいついた。
「毒の有無は未仮定だ。だが、直接手を触れたものは限られている」
公爵は淡々と続ける。
「証拠が揃うまで、ネメシアを別邸へ隔離する」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「拘束ではない。ただし、屋敷への出入りは禁ずる。監視はつける。逃亡、接触、私的な行動は一切認めない」
私は、一歩も動けなかった。
「……異論は?」
問われているのに、答えなど最初から決まっている。
「…ありません」
そう口にした瞬間、胸の奥で何かが、静かに折れた。
「連れて行け」
その命令で、侍従が前に出る。
私は最後に、眠るルミナを見た。
白い顔、穏やかな寝息。
さきほどまでの苦しみが嘘のようだ。
―――ルミナ、守れなくて……ごめんなさい。
そう思いながら、私は静かにその場を後にした。
―――――――――
―――やってしまった。
胸が、ぎゅっと締めつけられるように苦しくなて、私はそう思った。
せっかく、お姉様がこの屋敷に少しずつ馴染んできたところだったのに。
私が毒を呑んでしまう場面は、前の人生で読んだ物語の中に、確かにあった。
この世界に生まれ変わった時から、忘れようとしても消えなかった記憶。
けれど―――今日じゃない。
今日は、違うはずだった。
だからこそ、油断してしまった。
読んだ小説の中で、ネメシアは―――
侍女になることはなかった。
誰かに重要されることも、目立つこともなく、ただ屋敷の片隅で、静かに日々を過ごしてたはずだ。
デビュタントまでは―――。
それが、当たり前だった。
だから私は、安心していた。
彼女は物語の外にいる存在だと、勝手に決めつけていた。
けれど、今回は違う。
私がこの世界で口を出し、運び、行動したせいで―――
ネメシアは、侍女になった。
私の傍に立ち、私の紅茶を運び、そして今日、この場にいた。
……知らない展開だ。
本の中には、書かれていない。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
物語は、もう私の知っている形じゃない。
これから先、何が起こるのか―――私は、もうわからない。
だからこそ、これからは一つ一つの選択を、より慎重に重ねていかなくてはならない。
私は、ネメシアの笑顔を思い出す。
―――もう、彼女を物語の犠牲にはしない。
――――――
目を開けた瞬間、最初に感じたのは―――音の、なさだった。
いつもなら聞こえるはずの足音も、衣擦れもない。
代わりに、柔らかい布に包まれている感覚だけが、はっきりと伝わってくる。
……ああ。
私は、ゆっくりと瞬きをした。
天井は見慣れたもの。けれど、光も昼より落とされている。
「…生きてる」
掠れた声が、わずかに喉を震わせた。
そのとき、すぐ近くで小さく息を呑む音がした。
「……ルミナ?」
聞き慣れた声。
私は視線を動かし、そちらを見る。
「お母様…」
ベッドの脇に座っていた彼女は、私の顔を見て、ほっとしたように肩を落とした。
「目が覚めたのね……よかった…」
お母様の頬には雫が流れる。
そして彼女の手が、そっと私の手を包む。
温かい。生きている人の手だ。
―――助かったんだ。
毒は、消えた。
あの瞬間、身体の中で何かがほどける感覚があったのを覚えている。
聖女の力。
私の知っている物語でも、ルミナが毒をきっかけに目覚めていた。
それは、偶然ではない。
―――物語の強制力。
そんな言葉が、冷たい感触を伴って胸の奥をよぎる。
私は、布団の上で指先をわずかに動かす。
力は入らない。けれど、確かに生きている。
「…ネメシアは……?」
気づけば、そう尋ねていた。
お母様は一瞬だけ言葉に詰まり、それから静かに答える。
「…今は、ここにはいないわ。別邸で隔離されているわ」
その言い方に、私は小さく息を吐いた。
最悪の事態には至っていない―――そう思えて、胸の奥がわずかに緩む。
紅茶を渡してくれたときの、彼女の顔が浮かぶ。
青ざめて、目を見開いて。
まるで、自分が毒を飲んだみたいな顔をしていた。
―――本当は。
この物語で、ネメシアはそこにいない。
侍女にもならず、目立つこともなく、屋敷の隅で静かに生きているだけの存在だった。
私が、呼び寄せた。
私が、傍に置いた。
私が、あの場所へ来るように言った。
だから、展開が変わった。
知らない未来へ、踏み込んでしまった。
「…ごめんなさい」
誰に向けるでもなく、そう零す。
「大丈夫よ」
お母様の声は、穏やかだった。
「あなたは、生きている。それでいいの」
私は、ゆっくりと目を閉じる。
それでも、胸の奥でははっきりと思っていた。
―――この先が、どんな物語になっても。
ネメシアだけは、手放さない。
それは、物語への反抗ではない。
私自身が選んだ、ただ一つの答えだった。
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