第18話




誕生日当日の朝、屋敷はいつもより少しだけ早く動き始めていた。

廊下を行き交う使用人の足取りが軽く、花の香りが微かに漂っている。


今日は、ルミナの誕生日。


十二歳になる、その日だ。


私はいつもと同じ時間に起き、いつもと同じように身支度を整えた。

けれど、胸の奥だけが落ち着かない。


―――今日は、特別な日。


そう意識してしまう自分を、少しだけ持て余しながら、私はルミナの部屋へ向かった。


扉をノックすると、返事よりも先に中から足音が聞こえた。


「ネメシア!」


扉が開くより早く、ルミナが飛び出してくる。

私は思わず足を止め、腕を伸ばして受け止めた。


「おはようございます、ルミナ様」

「おはようじゃないわ。遅い!」


そう言いながら、ルミナは頬を膨らませ、私の袖を掴む。

力は弱いが、離す気はなさそうだ。


「今日は誕生日なんだから、一番最初に来てくれると思ってたのに」

「まだ朝ですよ」

「だからよ」


理屈になっていないのに、堂々と言い切る。


私は小さく息を吐き、部屋の中へ促した。

ルミナは満足したように頷き、今度は私の背中にぴたりと寄り添ってくる。


「今日は一緒にいてくれるでしょう?」

「仕事が一段落つけば、ですけれど」


そう言うと、ルミナは少し不満そうな顔を浮かべた。


「…早めに終わらせてね」

「もちろん」


私はルミナの髪に手を伸ばし、身支度に取りかかった。



身支度を終えたルミナは、いつもより一層きれいだった。

淡い桃色の髪に、控えめな刺繍が施された水色のドレス。


「どう?ネメシア」


ルミナはあどけない笑顔を向けてくる。


「とても綺麗よ」


それは、飾りのない素直な感想だった。

立ちふるまいも含めて、ルミナはもう立派な公爵令嬢だ。


「…えへへ」


私の言葉に、ルミナの顔がふっと緩んだ。


「…それでは、私は準備がございますので。また後ほど」


そう言って、私はルミナのもとを立ち去った。



今年の誕生日パーティーは、他の貴族を呼ばない。

ルミナが小規模がいい、と公爵にお願いしたらしい。


だからといって、手を抜くわけにはいかない。

私は与えられた仕事をこなすために、持ち場へと向かった。



――――――


会場の準備は、滞りなく終わった。

飾り付けは豪華に、不足がないように。

小規模とはいえ、主役は公爵令嬢だ。


花の配置、卓の位置、給仕の動線―――ひとつずつ確認し、ようやく肩の力を抜いた。


「…これで大丈夫」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

残りの細かい作業は他の人達に任せよう。


私はその足で、自室へと戻った。

廊下の喧騒を背に、扉を閉めると途端に静けさが戻る。


机の引き出しを開け、奥にしまっていた包みを取り出した。

布で丁寧に包まれた、それほど大きくない贈り物。


「……」


指先で撫でると、布越しにかすか凹凸を感じる。

時間をかけて縫った、その感触。


公爵令嬢への贈り物としては、きっと控えめすぎる。


「ルミナは、喜んでくれるかしら」


そんな心配をするまでもなく、きっと喜んでくれる。

そう思っていても、やはり少し不安だった。


私は包みを胸に抱え、深く息を吸った。

もうすぐ、誕生日の席が始まる。


この手で渡すために、私はその場へと向かった。



扉を開けると、柔らかな光と静かなざわめきが広がっていた。

食卓は整えられ、花が飾られ、いつもの広間より華やいで見える。


その中で、真っ先に視線が合った。


―――ルミナ。


部屋の奥、談笑する使用人たちに囲まれながらも、彼女はこちらを見ていた。

気づいた瞬間、ぱっと表情が変わる。


一拍置くこともなく、ルミナは椅子を離れた。


「ネメシア!」


名前を呼ぶ声が、はっきりと届く。

ドレスの裾を押さえながら、小さな足でこちらへ駆けてくる姿は、どこか子供らしくて…。


私は思わず、その場で足を止めた。


「もう、遅いわ」


そう言いながらも、非難の色はない。

近くまで来ると、ルミナは私の袖を掴んだ。


「ちゃんと来てくれたのね」

「ええ。約束ですから」


そう答えると、ルミナは満足そうに頷いた、

その手は、離れそうにない。


私は持っていた包みを、そっとルミナに差し出した。


「ルミナ、お誕生日おめでとう」


ルミナにしか届かないよう、声を落として告げる。

姉として、彼女へ贈る祝福の言葉だった。


するとルミナは、はっとしたように目を見開く。

一度私の顔を見てから、ゆっくりと包みへと視線を落とした。


「……ありがとう」


ルミナは私から包みを受け取ると、それを大事そうに胸に抱えた。


「開けてみても?」

「ええ」


ルミナは、包みを壊さないように、丁寧に解き始める。


「まぁ…」


ルミナの手元には、赤いアネモネの刺繍が施された手巾があった。

私が昔から好きな花。


「とっても嬉しい…大事にします」


そう言って、ルミナは無邪気に笑った。

私はその笑顔を見た瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、ほどけた。


……よかった。


ただそれだけで、十分だった。

高価かどうかでも、出来映えでもない。

彼女が「大事にする」と言ってくれた事実が、すべてだった。


「ネメシア?」


名を呼ばれて、私は顔を上げる。


「今度は、私の番よ」


そう言って、ルミナは少しだけ得意げに微笑んだ。

そして、そっと手を差し出す。


小さな包み。

私が渡したものより、ずっと簡素で、軽い。


「開けて」


言われるまま、包みを解く。

中にあったのは、一対のピアスだった。

小さく、主張しすぎない造り。

淡い金色の台座に、深い赤の石がはめ込まれている。


「……」


言葉を失っていると、ルミナが続けた。


「ネメシアの瞳の色。前から、きれいだなって思ってたの」


その言葉に、胸がきゅっと鳴った。


「派手なのは似合わないと思ったから、これにしたの。……嫌じゃない?」

「……いいえ」


首を横に振る。


「とても、嬉しいです」


そう答えると、ルミナはぱっと顔を明るくした。


「ほんと!?よかった!」


無邪気な声。

けれど、その選び方は驚くほど私をよく見ていた。

私はそっとピアスを握りしめる。


―――貰う側になる日が来るなんて、思ってもいなかった。


「大切にします」


そう言うと、ルミナは満足そうに頷いた。


「でしょ?だって、お姉様へのプレゼントだもの」


その一言が、胸の奥に、静かに落ちていった。


「ルミナ」


公爵の声が、少し離れたところから聞こえた。


「はい」


ルミナは名残惜しそうにこちらを一度見てから、姿勢を正す。


「またあとでね」


小さくそう囁いて、彼女は自分の立つべき位置へと戻っていった。

その背中は、先程よりもほんの少しだけ誇らしげに見える。


私は手の中のピアスをそっと握りしめ、一度だけ深く息を整えた。


―――私が、あの中に入っても雰囲気が悪くなるだけ。


ルミナのいるその場を見て、胸の奥に小さな寂しさが落ちた。


「ネメシア」


今度は、別の声。

振り向くと、年上の侍女が控えめに手招きをしていた。


「ごめんなさい。準備の方で手が足りなくて」

「はい。すぐに伺います」


私は小さく一礼し、彼女の元へ向かう。


胸の奥に残る温かさを、表に出さないようにしながら。

役目は変わらない。私は侍女だ。


けれど―――


指先に残るその重みが、今日が特別な日だと、静かに教えていた。

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