第10話 お祓い③
――東地先生が戻ってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
但馬さんと私は、見えない壁に背を預けたまま、
目の前で蠢く呪物を黙って見つめていた。
時間の感覚が曖昧だ。暗闇の中では、焦りだけが濃度を増していく。
「なぁ……」
唐突に、但馬さんが声を落とした。
「はい?」
返した瞬間、彼はどこか申し訳なさそうに目を伏せる。
「ひとつ、頼みがあるんだ」
「頼み……ですか?」
何ですか、と言いかけたその時。
呪物がぐにゃりと膨れ上がり、倍近い大きさになった。
「……何か、いきなり大きくなったんですが!?」
「何かを吸収したんだろうな」
「香奈枝さんは……大丈夫かな」
胸の奥に不安が渦巻く。
あんなに肥大化したら、香奈枝さんの自我が保てるはずがない。
助けたい!
けれど東地先生に「動くな」と言われている。
足を踏み出すだけで、取り返しがつかなくなる気がした。
……先生が、きっと何とかしてくれる。
「東地先生……!」
祈るように名前を呼んだ瞬間、
ガラスが砕け散るような音が響いた。
世界が白い闇に包まれる。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ白いノイズだけが頭の奥でざわめいていた。
「――お待たせしました」
耳元に、あの優しい声。
同時に背後から、そっと抱きしめられる感覚が走る。
「先生……?」
視界が徐々に晴れ、振り返ると東地先生がそこにいた。
柔らかな微笑を浮かべたまま、腕に少し力を込めてくれる。
「……先生だぁ……」
安心した途端、涙腺が崩壊しそうになる。
「お祓いは……終わったんですか?」
「ええ。僕のやることはもう終わりました。
あとは、古川さんを連れて戻るだけです」
え? そうなんですか?
――でも、まだ何も解決してない気がするんですけど!?
混乱する私の前で、先生は静かに呪物へ向き直った。
「さて、僕の仕事はここまでです。
香奈枝さん、聞こえてますか?
約束どおり――清人さんを連れてきました。
これから先は、あなたたち姉弟にお任せします」
先生の視線が、足元の影へ移る。
そこには一人の男が倒れていた。
「前条寺……清人……?」
但馬さんが信じられないものを見るような目を向ける。
これが――香奈枝さんを殺した男。
その瞬間、蠢いていた呪物がぴたりと止まった。
「……う」
男が呻き声を上げ、ゆっくりと目を開く。
「ここは……?」
視線をさまよわせ、巨大な塊を見た瞬間、清人は顔を引きつらせた。
「な、何だ……あれは」
「驚くことないだろ? アレは、あんたが作った呪物だ」
但馬さんの声が低く響く。
「僕が……作った?」
「そうだよ。姉貴を蟲毒にしたの、あんただろ」
「……香奈枝の弟か? 君は死んだはずでは?」
清人の顔から血の気が引いていく。
「まさか……僕も死んだのか……?」
震える声で呟いた問いに、東地先生が淡々と答えた。
「いいえ。まだ“死”ではありません」
冷ややかな声音。
清人が先生に詰め寄ろうとしたが、足元で何かが絡みつき、前へ進めない。
「……なんだ、これ?」
足元を見下ろせば、幾重にも重なった“糸”が絡みついていた。
縄のように太く、それは呪物へと繋がっている。
「東地先生……? これは一体……」
「その足に絡みついているのは、あなたが集めた“呪いの縁”です。
育ちすぎた呪いは、もはや浄化では消せません。
――だから、お返しさせていただきました。清人さん」
「馬鹿な! 僕は呪いなど集めていない!」
清人が怒りの形相で叫ぶ。
東地先生は小さく息を吐き、静かに言葉を返した。
「あなたが“浄化”だと信じて行っていた儀式。
あれは――“呪いの吸収”。蟲毒を生むための術式ですよ」
「そんな……! あれは師匠に教わった正式な……」
「なるほど。師匠がいたのですね。
ですが、何故その人物はあなたに“嘘”の術式を教えたのでしょう?」
清人の瞳が揺らぐ。
「確かに、呪術を発動していたのはあなたの力です。
けれど――器以上の呪いを抱えれば、器は壊れる。
そして行き場を失った呪いは、作り主のもとへ還る」
先生の視線が、清人の背後を指した。
「見えるでしょう。あれが、あなたの集めたすべてです」
清人が振り返る。
呪物がどろりと蠢き、息をしているように膨張していた。
「……ひっ」
清人が悲鳴を漏らす。
「東地先生! な、何とか……!」
「残念ながら、もう止められません。
ここまで肥大化すれば、解除は不可能です」
東地先生はまっすぐ清人を見つめた。
「――それに。そろそろ、香奈枝さんを解放してあげてもいい頃でしょう?」
「香奈枝……?」
その名を呼ぶと同時に、静止していた呪物がゆっくりと動いた。
そして、その中から――香奈枝さんが姿を現した。
清人の瞳が、恐怖と後悔で見開かれる。
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