第8話 領域④
「こんにちは」
東地クリニックのドアを開けて声を掛けると、奥から「はーい」と軽やかな返事が返ってきた。
すぐにパタパタと足音が近づき、東地先生が笑顔で姿を現す。
「いらっしゃい、どうぞ」
「お邪魔します」
――ああ、この笑顔を見ると、胸の奥が少し軽くなる。
しぼんでいた心が、ほんのり温もりを取り戻す。
そういえばここを訪れるのは、うっかり寝落ちして泊まってしまった、
あの夜以来だ。
……あの時は本当に、心臓が止まるかと思ったけれど。
先生の後について休憩スペースに入ると、視界に飛び込んできたのは金髪だった。
ソファに無防備に寝転がり、爆睡している人物――。
「羽生さん?」
「……ああ。今朝ふらりと来てね。近くで飲んでいたらしくて。
“家に帰るよりここが近いから泊めろ”だそうです」
「なるほど……相変わらず有無を言わせないジャイアニズム」
「ええ。もう慣れっこですから。ふふ」
促されて椅子に腰を下ろすと、思わず羽生さんの寝顔に目を奪われた。
そのとき、先生が目の前に湯気の立つカップを置いてくれる。
「ありがとうございます」
「いえ、ちょうど淹れていたところでしたから」
にこりと笑って、先生は私の隣に腰を掛ける。
その穏やかな微笑に、胸が少し騒いだ。
「羽生さん、お疲れのようですね」
「休み返上で駆り出されてたようですからね」
「うわぁ、ブラック……。
あ、もし私が手を握れば回復する効果があるなら、羽生さんにも――」
「うーん……それは僕だけの特権であってほしいので。
自然治癒で回復してもらいましょう」
「……!」
危うくコーヒーを吹きそうになって、私は慌てて口元を押さえる。
「東地、そういうところ!」
先生は声を立てて笑った。
「本当のことを言ってもいいんですよ? そんな効果はないって」
「おや? 僕を信じないんですか。……嘘は言いませんよ。
ただ、もしかしたら――それは僕にしか効かないのかもしれませんね」
「はいはい。そういうことにしておきます」
わざと溜息混じりに返すと、先生はまた楽しげに笑う。
――最近思う。先生、なかなかの性格をしている。
油断すると振り回される。
「では自然治癒を高めるために、元気の出るご飯を作らないとですね。
コーヒーを飲んだら買い物に行きましょうか?」
「あ、それなら――」
そう言いかけたとき。
ソファの羽生さんが、むくりと起き上がった。
「……俺も行くわ」
掠れた声でそう言い、頭をがしがし掻く。
「ひゃっ……びっくりした! 起きてたんですか?」
「ん……今起きた。タバコがねぇ」
「銘柄教えてくれれば買ってきますけど?」
「……いや、行く」
寝惚け眼のまま断言する。なるほど――同行は決定事項らしい。
先生へ視線を向けると、苦笑で返された。
「じゃあ……古川さん。この二日酔いのおじさんをお供にお願いできますか?
何でも買ってくれるそうですから、遠慮なく」
「了解しました!」
思わず敬礼すると、洗面所から顔を覗かせた羽生さんがぼやく。
「誰がおじさんだ。まだ三十三だ……まあいいけどな」
――三十三歳。初めて知った。
先生や点野さんも同じくらいなのだろうか。考える間もなく、羽生さんに腕を掴まれ、私は買い物クエストへ引きずり出された。
◆
商店街のスーパーへ向かう途中、羽生さんは何度も大きな欠伸をしていた。
二日酔いなのか、疲れが抜けないのか。
「羽生さん、大丈夫ですか? 何か食べたいものあります?」
「……胃に優しいやつで頼む」
「胃に優しい……」
おかゆ? いや、ポトフなら温かくて消化もいい。
そんなふうに献立を組み立てていると、羽生さんがふいに立ち止まり、
真っ直ぐこちらを見た。
「……な、何ですか」
「……俺に言うこと、あるだろ」
その一言で心臓が跳ねた。
隠し事は無駄――そう悟る。先生や点野さんと同じく、この人にも。
「……約束、破りました。羽生さんと交わしたのに……」
喉がからからで、声が掠れる。
「但馬さんのこと、調べました。お姉さんのことも」
俯いて告げると、羽生さんは短く息を吐いた。
「……だろうな。想定内だ」
怒鳴られない。それが逆に怖い。
「人間の心理だ。調べるなって言われりゃ、余計に調べたくなる。
ちゃんと話さなかった俺が悪い。だから――」
羽生さんは、乱暴に、それでもどこか優しく、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そんな、この世の終わりみたいな顔すんな」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「ほら、手」
「……え?」
差し出された左手を見て首を傾げると、羽生さんは口の端を吊り上げた。
「癒しのパワーがあるんだろ? スーパー往復で回復させとけ。
……後で東地と一緒に、お前を説教しなきゃならねーんだからな」
「う……」
私の手を掴み、羽生さんは歩き出す。
怒っていないのかな……と恐る恐る顔を伺うと、ちょうどまた大きな欠伸をしていた。
◆
食材と、帰り道で見つけたケーキを手にクリニックへ戻る。
重たい袋は羽生さんが全部持ち、もう片方の手は――まだ私の手を握ったままだった。
クリニックの前で、ポストから郵便物を取り出している先生の姿が見えた。
「先生ー!」
声を掛けると、先生が振り返り――笑顔が一拍遅れて固まる
「羽生君。お帰りはあちらです」
張り付けた笑顔のまま、私と羽生さんの手をチョップで引き剝がした。
羽生さんは不敵に笑い、「俺様完全復活」と呟いて建物に消えていく。
その背に、妙なジャイアニズムを感じてしまう。
「……おかえりなさい。大丈夫でしたか?」
「概ね……大丈夫でした。ただ……」
「ただ?」
「但馬さんの件で、これから説教が待ってるらしくて……胃が痛いです」
「おや。説教覚悟で調べたんじゃ?」
「……半分は不可抗力だったんですよ。先生、意地悪ですね」
「ふふ。すみません」
くすくす笑う先生の額に、軽くチョップを落とす。
「あ……ケーキ、買ってもらいました」
「それはいいですね」
先生は袋を受け取りながら、楽しそうに目を細める。
「……羽生君のお説教で、ケーキがしょっぱくならなければいいですが」
「えっ、そんなに……? え、えっ」
怯えて差し出したケーキを、先生は嬉しそうに受け取った。
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