第8話 領域③

休日の朝、目覚ましも鳴っていないのに目が覚めた。

二度寝するには惜しい気がして、そのまま布団を抜け出す。


窓を開けると、冷えた風がするりと部屋に入り込み、肌を撫でた。

季節はゆっくり冬へ向かっている

――ひやりとした空気が、そう告げている。


――今日は、東地先生と約束の日。

クリニックへ行くのは午後からだから、慌てる必要はない。


「さて……どうしようか」


小さく呟き、思い立って出かけることにした。

頭の中を整理したいとき、私は神社に行く。

澄んだ空気の中に身を置けば、余計な考えが一度、ほどける気がするから。


電車を乗り継ぎ、普段なら通過してしまう駅で降りた。

前から気になっていた神社が、この辺りにある。


緩やかな坂を息を切らせて登り切ると、鳥居が視界に現れた。

達成感とともに小さく息を吐き、鳥居をくぐった瞬間――


空気が、ぴりりと張り詰めた。


音が少し遠くなる。色がわずかに沈む。

境内の隅々まで、目に見えない膜が張られているみたいだった。


(……ここ、強い)


手水舎へ向かおうとして、ふと視界の端に人影が入った。

休憩所のベンチ。そこに横たわる姿が、妙に見覚えのある輪郭をしている。


……まさか。


人違いかもしれない。そう思いながらも、足が勝手に近づいた。

その顔を確かめる前に、相手の瞼がぱちりと開く。


「うわ……」

「それはこっちの台詞」


不機嫌そうに声を落としたのは――但馬さんだった。


寝起きなのか、目元が少し赤い。

それなのに、纏っている気配だけは冴え冴えとしていて、

眠っていた方がまだ人間らしい。


「何? 早朝から神社巡りとか……暇なの?」

「暇じゃないです。神社巡りは趣味なので」

「ふーん。……ま、どうでもいいけど」


欠伸を噛み殺すように口元を歪め、彼は立ち上がった。

そして、そのまま歩き出す。


(待って)


咄嗟に、私は彼の袖を掴んでしまった。


「……何?」

「あ、えっと……その……」


自分でも何を言いたいのか分からない。

掴んだ指先だけが熱くなり、慌てて手を離した。


但馬さんは、怪訝そうに目を細める。

それから、口角だけを持ち上げた。


「ふーん……何? 俺に惚れたの?」

「違――」


言い切る前に、声が塞がれた。


「それとも……」

彼の目が、ひどく冷たくなる。

「俺の事情、知った?」


心臓が跳ねた。

胸の奥を、見透かす視線が真っすぐ貫いてくる。


「……」


答えられない私を見て、但馬さんは鼻で笑う。


「ホント、意味わかんねぇよな」

淡々と、けれど刃みたいに言葉を重ねる。

「例えるならさ。喫茶店で隣に座った客。

そいつが勝手に身の上話してたとして――

聞いちまったお前が悩んだり、親身に背負ったりするか? しねぇだろ」


「それは……」


「同じだ」

低い声が落ちる。

「俺の事情は俺のもんだ。お前には一ミリも関係ねぇ」


一歩、近づかれたわけでもないのに、距離が詰まったみたいに息が苦しい。


「どんな死に方をしようが――お前には関係ない」


心臓の奥で、音を立てて何かが割れた気がした。


静かな境内の空気が、さらに冷える。

私はきっと、先生や神社の人たちと関わるうちに――

自分も、何かできると錯覚していたのだ。


情けない。

全然、成長していない。


但馬さんは踵を返し、短く吐き捨てる。


「だから俺の領域に踏み込むな」

「……」

「次に見かけても、俺から声をかけることはない」


背中が遠ざかる。

そのまま終わる、はずだった。


「……でも」


不意に落ちた声に、私は顔を上げた。


但馬さんが、ほんの少しだけ振り返っている。

その表情は読めない。

けれど、さっきまでの冷たさとは微妙に違っていた。


「でも――そんな通りすがりの奴のことを、

一ミリでも覚えててやろうと思ったらさ」


そう言って、ポケットから何かを取り出す。

小さな紙袋。中身が揺れて、かすかに音がした。


新品のハンカチ。


「この間、血でダメにしたろ」

短く言って、押しつけるように差し出される。

「……これは呪物じゃねぇ。店で買ったやつだ」


「あ……うん。ありがとう」


受け取り、頭を下げた。

胸の奥が、痛いくらいに熱い。


但馬さんは、それ以上何も言わずに歩き出す。


「じゃあな」


薄い笑みを残して、今度こそ背を向けた。


取り残された私は、紙袋を強く握りしめた。

袋の角が掌に食い込む。


もう――話すことはできないのだろうか。


そう思った途端、切なさが胸の奥で静かに広がっていった。

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