第1話 眼鏡先生との出会い②


「はい。これで大丈夫ですよ」


丸眼鏡さん――先生が、にこりと微笑む。

視線を落とすと、包帯できちんと巻かれた右手がそこにあった。


「……まだ痛みますか? 痛み止めも出しておきましょうか」


「えっ? あ、いえ、大丈夫です!

本当にありがとうございました。あの、保険証まだ――!」


慌てて鞄を探り、財布を引っ張り出した拍子に、履歴書が一枚、床にぱさりと落ちた。


「ああ、大丈夫ですよ。勝手に連れてきて、勝手に処置しただけですから。

保険証もお金も、要りません」


「で、でも……」


「いいんです。はい」


先生は落ちた履歴書をひょいと拾い上げ、にこやかに差し出してくる。

私はそれを受け取り、「ありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。


「いえいえ。ふふっ。……お時間が大丈夫なら、コーヒーでもどうですか?」


「えっ? でも先生、お忙しいんじゃ……」


「今日は午後から休診なんです。ちょうど飲みたい気分でしたし。

よければ、お付き合いください」


そう言って先生は、コンビニ袋からドリップ式コーヒーを取り出し、またにっこりする。

――なるほど。だからコンビニで遭遇したのか。

私は小さく頷き、「ごちそうになります」と返事をした。


奥の部屋へ消えていく背中を目で追いながら、改めて院内を見渡す。

建物全体が昭和レトロで、白い壁紙はところどころ日焼けしている。

玄関の木製扉にあった「東地クリニック」という文字が、ふと思い出された。


(東地……先生の苗字かな)


「まだ自己紹介していませんでしたね」


いつの間にか先生が戻ってきていた。お盆の上には、湯気の立つカップが二つ。

サイドテーブルに置くと、先生は木製の椅子に腰を下ろす。


「改めまして、僕は東地亘久とうちのりひさ。このクリニックの院長です」


「あ、私は古川水姫ふるかわみずきです。……えっと、現在就活中でして」


口が勝手に余計なことを言ってしまい、しまった、と肩が固まる。

先生は楽しそうに「ふふっ」と笑った。


「なるほど。先ほどの履歴書はそういうことでしたか。

でも大丈夫。いい働き先は、きっと見つかりますよ」


「でも……もう十連敗中なんです」


「古川さん、“引き寄せ”という言葉をご存じですか?」


「引き寄せ……ですか?」


「願えば叶う力です。『どうせ駄目かも』と思いながら挑むと、その気持ちが願いになって、結果を引き寄せてしまう。

だから次は、“絶対大丈夫”と信じて挑みましょう。今度はきっとうまくいきます」


慰めというより、断言だった。

先生が本気でそう思っているのが伝わってきて、私は素直に頷いてしまう。


確かに心のどこかで「また駄目かもしれない」と思っていた。

……そんな顔、面接官に見抜かれて当然だ。


「本当にやりたいことは何か。自分の心と、じっくり向き合ってみるのもいいかもしれません。

その思いに“引き寄せ”られて、きっと答えが見つかりますよ」


「なるほど……」


焦ってばかりで、「やりたいこと」なんて考えたこともなかった。

深く息を吐いて、カップを両手で包む。掌に熱が移って、胸の奥までほどけていく。


「ありがとうございます。少し前向きになれました」


「それは良かった」


先生の淹れてくれたコーヒーは、心まで温めてくれるようだった。

焦りや劣等感が、湯気に溶けて、ゆっくり薄まっていく。



電車に揺られながら、今日の出来事を反芻する。

面接で落ち込んだ。それでも――その後の東地先生との出会いは、それ以上に大きかった気がする。


包帯の巻かれた右手にそっと触れる。

自然と口元が緩み、慌てて咳払いで誤魔化した。


(近いうちに……お礼をしに行きたいな)


そのときは「就職先が決まりました」と報告できるように。

――頑張らなきゃ。


窓の外、暮れゆく街並みを眺める。

心の奥に澱んでいた不安は、いつの間にか、前向きな希望に姿を変えていた。

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