第2話 「何を言っても無駄です」の客

 翌週の夜。

 遺失物窓口の裏木戸が、こんこんと鳴った。


「はい、夜間受付です。用件を――」


 志歩が戸を開けた瞬間、目の前に“座っている”子がいた。

 畳なんてないのに、正座。小さくて丸い。髪はふわふわ、頬は餅みたい。着物の袖をぷくっと膨らませている。


「さざん……」


「座敷童の類ですね。駅に畳はありませんが」


 子はぷいっと顔をそむけ、ほっぺを膨らませた。

 そして、信じられないほどはっきりした発音で言った。


「鍵が、かたい」


「鍵?」


 志歩が問い返すと、子はふんっと鼻を鳴らし、指を差した。

 改札横のコインロッカー。確かに最近、何個か動きが渋い。


「整備に回します。申告は?」


「やだ」


「……理由は?」


「やだ」


 昌之が後ろから顔を出し、口元だけで笑った。


「ほらな。何を言っても無駄です」


 志歩は、昌之の足を踏まずに深呼吸した。成長である。


「では、手順を変えます。あなたは“鍵がかたい”ことに困っている。私は“駅の設備を正常に保つ”責務がある。利害は一致しています」


 座敷童は、きょとんとした。


「りがい?」


「あなたが困ると、駅の雰囲気が荒れます。荒れると、人が転ぶ。転ぶと、クレームが増えます。増えると、私が困ります」


 昌之が、ぼそっと言う。


「志歩さん、言い方が全部、仕事」


「仕事です」


 座敷童は、しばらく志歩の顔を見ていたが、急にぽろっと泣いた。


「みんな、がちゃがちゃする。閉まらない。開かない。怒る。……いや」


 志歩は膝を折って視線を合わせる。

 私情は私情。そう思いながら、声を柔らかくする。


「怒鳴り声が苦手ですか」


 座敷童はうなずく。

 昌之が、急に真面目な声を出した。


「じゃ、俺がやる。ロッカーの前に立って、怒鳴る前に笑わせる。得意分野」


「あなたの得意分野が役に立つ場面が来るとは思いませんでした」


「ひどい」


 昌之は、構内に貼ってあった注意喚起ポスターを一枚剥がし、空きスペースに貼り直した。

 そこへ太い字で書き足す。


『鍵がかたい時は 深呼吸してから』


「……これで怒鳴る人、半分に減る。たぶん」


「根拠は?」


「俺の勘」


 志歩は、整備担当へ連絡し、渋いロッカーをその夜のうちに点検予約へ回した。

 座敷童はまだ泣きべそだったが、ポスターを見て、少しだけ口角が上がる。


「……深呼吸?」


「やってみますか」


 志歩が手本を見せる。吸って、吐く。

 座敷童も、胸をふくらませて、ぷはーっと吐いた。かわいい音がした。


 その瞬間、ロッカーの鍵穴から、すうっと黒い煙が抜けた。

 昌之が目を細める。


「へえ。詰まってたのは、油切れじゃなくて、怒鳴り声の煤か」


「煤?」


「言葉って、残るんだよ。良いのも悪いのも」


 志歩は、ロッカーの金属にそっと触れた。冷たいはずなのに、少し温かい。


 翌日から、駅で怒鳴り声が減った。

 深呼吸ポスターの前で、眉間に皺を寄せた男性が一度だけ息を吸い、鍵を回して「……開いた」と呟くのを、志歩は見た。


 夜、裏木戸を開けると、座敷童が畳のない地面に正座して待っていた。

 今度は泣いていない。小さな包みを差し出す。


「おれい」


 包みの中身は、古い五円玉が一枚。穴の向こうに、駅の灯りが丸く見えた。


「これは受け取れません。規定で――」


 志歩が言いかけたところで、座敷童がじっと見上げてきた。

 昌之が肩をすくめる。


「志歩さん、規定にない“ありがとう”って、どう処理すんの」


 志歩は一拍置いて、五円玉を手袋の上に乗せた。


「……預かります。遺失物ではなく、受領品として」


 座敷童は、満足そうに笑った。

 その笑顔が、志歩の胸に小さな灯を残した。


「……昌之さん」


「ん?」


「あなた、卑劣な人だと思っていましたが」


「思ってたんだ」


「今日の対応は、悪くありません」


 昌之は、照れたように鼻をこすった。


「志歩さんに褒められると、逆に怖いな」


「怖がらないでください。勤務中です」


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