第2話

「ふぅ……。これくらいでいいか」


俺は額の汗を手の甲で拭い、満足げに息を吐いた。

岩陰を埋め尽くしていた厄介な雑草――紫色に発光し、引き抜くたびに大地の悲鳴のような音を立てていた頑固な草――は、すべて綺麗に取り除かれた。

積み上げられた草の山からは、どこか清涼感のある不思議な香りが漂っている。ミントというよりは、もっと精神を直接癒やすような高貴な香りだ。これを枕元に置いておけば、安眠効果がありそうだ。


「さて、寝床の準備もできたし……ん?」


腰を下ろそうとした俺の視界の端に、白い何かが映り込んだ。

俺が「草むしり」をした岩場のさらに奥、暗闇が濃く溜まっている窪みだ。


そこに、うずくまるような小さな影があった。


「……犬か?」


俺は目を凝らした。

真っ白な毛玉だ。大きさは、俺の膝丈くらいだろうか。

小型犬……ポメラニアンか、あるいはサモエドの子供のように見える。


ダンジョンの深層に犬がいるなんて妙な話だが、迷い込んだのだろうか。あるいは、俺と同じように心ない飼い主に捨てられたのか。


「かわいそうに。震えてるじゃないか」


俺は思わず歩み寄った。

近づくにつれて、周囲の空気が急激に冷え込んでいくのを感じる。

吐く息が白くなるほどの冷気だ。ダンジョンの深層は気温が不安定だが、ここだけ極地のように寒い。

その「白い犬」の周囲には、霜が降りていた。


(相当寒かったんだろうな……。こんなところで独りぼっちで)


俺の目には、寒さに凍えて縮こまっている哀れな子犬にしか見えなかった。


だが、もしここにSランク級の「鑑定」スキルを持つ冒険者がいれば、泡を吹いて卒倒していただろう。

それは犬ではない。

白銀の毛並みは、あらゆる物理攻撃と魔法を無効化する『神獣の聖皮』。

その身から発せられる冷気は、国一つを氷河期に閉ざす『終焉の凍気(コキュートス)』。

そして、その正体は――災害指定モンスター『天喰らう白狼(フェンリル)』の幼体。

かつて北の軍事大国を一夜にして滅ぼした、生ける伝説そのものだった。


しかし、機械音痴で世情に疎い俺に、そんな知識はない。

あるのは「俺と同じく捨てられた者へのシンパシー」だけだった。


「グルルルルッ……!」


俺が手を伸ばしかけると、犬は喉を鳴らして威嚇してきた。

真紅の瞳が、暗闇の中でギラリと光る。

その瞳には、人間ごときが気安く触れれば魂ごと喰らい尽くすという、絶対強者の殺意が宿っていた。


だが、俺は苦笑してしゃがみ込んだ。


「はは、元気だな。でも、その音は威嚇じゃないだろ?」

「……グル?」

「腹の虫が鳴ってる音だ。隠さなくていいって。俺も腹ペコだからさ」


俺は作業着のポケットをまさぐった。

そこから出てきたのは、ラップに包まれた、ひしゃげた塩むすびが一つ。

今朝――いや、追放される前に自分で握ったものだ。これが俺の手持ちにある、正真正銘、最後の食料だった。


俺の腹も、限界を訴えている。

これを食べてしまえば、明日からの食料はない。

それでも、目の前で震えている(と俺が思い込んでいる)小さな命を見捨てることはできなかった。


「ほら。形は悪いけど、味は保証するよ」


俺はラップを剥がし、真っ白な米の塊を差し出した。


フェンリルは警戒していた。

この人間からは、殺気がまったく感じられない。それどころか、自分のような上位存在を前にしても、恐怖の色すら浮かべていない。

(罠か? それとも毒か?)

フェンリルは鼻をひくつかせた。


その瞬間。

芳醇な香りが、フェンリルの嗅覚を直撃した。


ただの米ではない。

俺の固有スキル――自分でもよくわかっていないが――『生活魔法』によって炊かれた米だ。

俺が料理をすると、なぜか「美味しくなーれ」と念じた分だけバフがかかる。

『滋養強壮』『体力全回復』『状態異常解除』、そして『旨味増幅(極)』。

それはもはや、エリクサーを固めて食べるようなものだった。


「オンッ!?」


フェンリルが目を見開いた。

本能が「それを食わせろ」と叫んでいるのだ。

数百年ぶりの空腹。そこに差し出された至高の供物。


「……食うか?」


俺がもう一度差し出すと、白い影が残像を残して動いた。

ガブッ!

俺の手ごと持っていきそうな勢いで、おにぎりが消滅した。


「うおっ、すげえ食欲」


モグモグ、ゴックン。

一瞬だった。

フェンリルは口の周りについた米粒まで丁寧に舐め取ると、期待に満ちた瞳で俺を見上げてきた。さっきまでの殺意に満ちた赤い瞳は、今や「おかわりはありませんか?」と訴えるつぶらな瞳に変わっている。


「……悪いな、もうないんだ。俺の分までやっちゃったからさ」


俺が空になった掌を見せると、犬は「クゥン……」と悲しげに鳴いた。

そして、トテトテと歩み寄ってくると、俺の膝に顎を乗せてきた。

さっきまでの冷気はどこへやら、その体温はポカポカと温かい。


「なんだ、現金なやつだなあ」


俺は笑って、その頭に手を伸ばした。

今度は威嚇されなかった。

指先が、白銀の毛並みに埋まる。


「うわ、すっげ……」


驚いた。

最高級のシルクか、あるいは雲をそのまま触っているような手触りだ。

ふわふわで、もふもふ。

指が吸い込まれるような弾力と、滑らかさ。

俺は無意識のうちに、両手でわしゃわしゃと撫で回していた。


「あー、これはいいな。癒やされるわ……」


追放されたショックも、将来への不安も、この極上の毛並みを触っているとどうでもよくなってくる。

犬の方も、まんざらではないらしく、コロンと仰向けになって腹を見せた。

「ここも撫でろ」という催促だ。


「よしよし。お前、毛並みがいいから『ポチ』な」

「ワフッ!」


フェンリル――いや、ポチは嬉しそうに吠えた。

人類が畏怖する神獣に、日本で最もありふれた名前をつけた瞬間だった。


「お前も独りぼっちなら、俺と一緒にいるか? 俺もクビになったばかりで暇だしな」


俺が問いかけると、ポチは俺の顔をペロリと舐めた。契約成立だ。

俺はポチを抱き上げ、寝床へと戻った。

温かい湯たんぽ兼、最高のモフモフ抱き枕が手に入った。今日はいい日かもしれない。


そう、俺が呑気に犬と戯れている間、俺の頭上を飛ぶ「光る石(ドローン)」が、とんでもない映像を世界中に垂れ流しているとも知らずに。


        ◇


一方その頃、配信画面のコメント欄は、先ほどの「草むしり」以上のパニックに陥っていた。


---


## :ギャアアアアアアアア!!

:出たあああああああああ!

:フェンリル! 天喰らう白狼だ! 逃げろ!!!

:終わった。この配信者、死んだわ

:なんで深層のボス級がそのへん歩いてんだよ!

:目が合った! 殺される!

:あーあ、食われるぞ……

:……え?

:おにぎり?

:は?

:いまフェンリルに餌付けしようとした?

:正気か? 腕ごと食いちぎられるぞ

:食ったあああああああああああ!

:しかも美味そうにしてるwww

:フェンリルって塩むすび食うのかよwww

:いや待て、あのフェンリル、纏ってるオーラが消えたぞ?

:お腹見せたwwwwwww

:嘘だろ……あの災害指定モンスターが……

:ポチwwwwwwwww

:ネーミングセンスwww

:神獣になんて名前つけてんだよww

:でも、なんか可愛く見えてきた

:もふもふ動画助かる

:てぇてぇ……

:尊い……

:俺もあのフェンリルもふもふしたい

:【速報】謎の配信者、神獣をポチと命名し、手懐ける

:同接5万人超えてて草

:歴史的瞬間を見た


凄まじい勢いでコメントが流れていく。

視聴者数は、いつの間にか数万人規模に膨れ上がっていた。

SNSのトレンドには「#謎の配信者」「#フェンリルに塩むすび」「#ポチ」というワードが急上昇し始めている。


そんなこととは露知らず、俺は抱き枕にしたポチの温かさに包まれて、うとうとしていた。


「ん? なんかこの石、温かくなってきたな」


俺は枕元に浮いているドローンに手をかざした。

ほんのりと熱を帯びている。

視聴者数の爆増と、コメント処理の負荷でCPUが悲鳴を上げている熱なのだが、俺はそんなことなど知る由もない。


「へえ、最近の石はカイロ機能までついてるのか。便利だなあ」


俺はドローンを抱き寄せ、ポチと挟んで暖を取ることにした。

世界中が見守る中、俺と神獣とドローンの奇妙な同居生活は、こうして幕を開けたのだった。

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