第三章:三度目の支配、あるいは執着という名の救済
第十話:定義者の帰還、あるいは上書きされる初日(前編)
再帰的な計算において、初期値のわずかな変更は、最終的な解に決定的な乖離(かいり)をもたらす。
観測者がシステムの「外側」の記憶を保持したまま「内側」へと再参入する際、その存在自体が特異点となり、因果律の鎖を内部から溶解させる。そして、三度目となるこの灰色の教室は、もはや解くべき謎が転がっている場所ではなく、僕が望む結末へと物語を強制的に編み直すための、冷たい舞台に過ぎなかった。
視界が、白光の残滓(ざんし)からゆっくりと色彩を取り戻していく。
鼻を突くワックスの匂い、遠くで響く吹奏楽部の練習の音、そして窓から差し込む、4月の不自然なほど明るい陽光。
僕は、二度目の人生の「始まり」と全く同じ、あの窓際の席に座っていた。
周囲の喧騒は、僕という異物を排除したまま流れている。
クラスメイトたちの「無視」という名の冷たい無関心。それは一度目の人生では絶望の種であり、二度目では平穏の証だった。けれど、三度目の僕にとって、それは操作しやすい「空白」でしかなかった。
ガラリ、と教室の扉が開く。
その瞬間、室内の温度がわずかに下がったように感じられた。
白砂だ。
二度目の人生で、僕を「執着という名の救済」で包み込もうとし、その実、自分自身の欠落を埋めるための標本にしようとした少女。
彼女は周囲を見向きもせず、迷いのない足取りで僕の隣の席へと歩み寄ってくる。 二度目の彼女なら、ここで僕に「能動的な無知」を促し、僕の制服の裾(すそ)をそっと掴んでいたはずだ。彼女にとっての「救済」が、そこから始まるはずだった。
だが、僕は彼女が手を伸ばすよりも早く、自ら立ち上がった。
「――待っていたよ、白砂さん」
白砂が、目に見えて硬直した。
彼女の氷のような美貌に、隠しきれない驚愕が走る。彼女の演算にはないはずの、僕からの自発的な接触。
僕は彼女が僕の裾を掴む前に、その白く細い手首を、優しく、けれど逃げ場を許さない確かな力で掴み取った。
「玖島……君?」
白砂の声が、微かに震える。
彼女の「つん」とした態度の奥底に、二度目の人生の終焉で見せた、あの歪な独占欲の萌芽(ほうが)が眠っているのを、僕は知っている。
「君が何を望んでいるのか、僕にはすべて分かっている。……君が僕という『鏡』に何を映し出し、どう愛したいと思っているのかも」
僕は彼女の手を離さず、そのまま自分の膝の上に置いた。
彼女を拒絶するのではない。むしろ、彼女が望んでいた「執着」の主導権を、僕が奪い取る。
「君の隣にいるのは、僕がそう決めたからだ。……だから、安心して僕に執着するといい。ただし、そのルールを決めるのは僕だ」
白砂の瞳が、大きく見開かれる。
彼女の知性は、今、自分を救済する側にいたはずの自分が、逆に巨大な意志に飲み込まれようとしている事実を必死に処理しようとしていた。
恐怖、戸惑い、そして――知性を凌駕するほどの、暴力的な恍惚。
彼女の耳の端が、一気に深紅に染まっていくのを、僕は冷徹に見届けた。
その時。
教室の反対側の入り口から、もう一つの「視線」が突き刺さった。
阿久津ななみ。
僕を陥れ、僕と同じ血を持ち、僕という存在を呪縛した鏡像の片割れ。
彼女は、僕と白砂のやり取りを、遠くから静かに観測していた。
二度目までの彼女なら、そこにあるのは冷笑か、あるいは得体の知れない慈愛だったはずだ。
けれど、三度目の僕は、彼女の視線から逃げない。
僕は白砂の手を握ったまま、阿久津の方へ顔を向け、不敵な微笑を返した。
(……逃がさないよ、阿久津。……君の悪意も、君の罪も。すべてを僕の隣の席へ、引きずり出してあげる)
阿久津の瞳に、初めて「戦慄」の色が浮かんだ。
彼女が仕掛けようとしていた再演のシナリオが、僕という「定義者」の手によって、初手から完膚なきまでに書き換えられたことに、彼女は気づいたのだ。
灰色の教室。
かつて絶望に満ちていたその場所は、今、僕が統治する「完璧な箱庭」へと姿を変えようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます