第九話:開示の代償と、論理の瓦解(後編)

 二つの高度な知性が衝突する際、そこには対話の余地など存在しない。あるのは、互いの「前提」をいかに効率的に解体し、己の「定義」を上書きするかという、冷徹な演算の応酬のみだ。  

 観測者たちは対象を記述するコードの美しさにのみ執着し、記述される側の意思を無視する。

 彼女たちの言葉はどれほど優雅に響いても、その本質は鋭利なメスとなって、僕という魂を「解剖」していくための道具に過ぎなかった。


 バリケード代わりの重い棚が、外側からの「理性の圧力」に耐えかね、一センチ、また一センチと押し戻される。その隙間から、月光よりも冷ややかな阿久津の声が滑り込んできた。


「……滑稽ね、白砂さん。あなたが彼に強いている『隔離』は、愛ではなく、単なるデータベースの管理に過ぎないわ」


 阿久津は扉を乱暴に開けることはせず、ただ開いた細い暗がりに、一片の非の打ち所もない美貌を覗かせていた。


「彼が私と同じ『血』を持ち、私と同じ『論理』を刻まれた鏡像(スペア)だからこそ、あなたは彼を欲した。あなたが守ろうとしたのは玖島君という人間ではなく、私から奪い取った『欠片』としての彼。……あなたが彼に囁いた愛の言葉は、すべて私という存在への、歪んだ羨望を隠すためのラベルね」


「黙りなさい……! あなたに何がわかるというの!」


 白砂は僕の裾を、今にも引きちぎらんばかりの力で握りしめた。彼女の爪が、僕の肉に深く食い込む。


「彼はあなたのスペアじゃないわ! あなたが一度目の人生で捨て、二度目の人生で見捨てようとした彼を、私が『再定義』してあげたのよ。阿久津ななみという傲慢なシステムの干渉をすべて排除し、私だけの檻の中で、私だけの論理で満たされる標本として! 彼は私という観測者がいて初めて、その美しさを完成させるのよ!」


 白砂の言葉は、かつての知的な静謐さを失い、剥き出しの独占欲を論理で武装した「狂気の数式」へと変貌していた。


 僕は二人の間で、瓦礫と化した「真実(書類)」を足元に散らし、ただ立ち尽くしていた。  


 二人の言葉が、鋭い弾丸となって僕の意識を貫く。


 

 ――隔離という名の管理。  

 ――破壊という名の救済。


 白砂は僕を、阿久津から奪った「戦利品」として愛し、阿久津は僕を、自らの呪縛を解くための「予備パーツ」として観測している。  


 視界が急速に色を失い、世界が灰色のノイズに呑まれていく。


 ああ。  


 結局、僕は「鏡」でしかなかったのだ。  


 阿久津が見れば自分が映り、白砂が見れば奪い取った理想が映る。  

 そこに「僕」という変数が存在する余地など、最初から一ミクロンも用意されていなかった。愛されていると思っていた二度の人生は、誰かのエゴを映し出すための、透明な硝子として利用されていただけの、空虚な時間だった。


 心臓が、あまりの絶望に凍りつく。  

 期待し、信じ、縋(すが)りついた「救い」の正体は、僕を人間から物質(データ)へと変えるための、甘美な麻酔だったのだ。


 絶望が極限に達したとき、システムは生存のために未知の領域へと跳躍(リープ)する。  

 自己崩壊の淵で変数の次元が一つ繰り上がり、観測者は系全体を掌握するメタ知性を獲得する。

 誰かのために流す涙が枯れ果てたあとに残ったのは、自らの手でこの残酷な物語を書き換えるという、身を切るような決意だった。


「……もう、終わりにしよう」


 僕の唇から漏れた声は、僕自身さえも驚くほど、感情の排熱が完全に止まった冷徹な響きだった。


 論じ合っていた二人の少女の時間が、物理的に凍結したかのように止まる。  

 僕は、肉に食い込んでいた白砂の手を、まるで不要な回路を切り離すかのような迷いのなさで、静かに、けれど圧倒的な力で振り払った。


「玖島君……?」

「お兄ちゃん……?」


 僕を見る二人の瞳に、初めて「恐怖」に似た狼狽が走る。  


 それは、ただの標本だったはずの対象が、自らの意志で呼吸を始めたのを見た者の反応だった。


「愛されること。救われること。……それを前提に置いていたから、僕の演算は常に間違っていたんだ」


 僕は阿久津を見つめた。  


 自分と全く同じ構造を持つ、呪われた片割れ。  


 彼女がなぜ「再演(リドゥ)」を発現させることができたのか。そしてなぜ、僕もまたその力を使えるのか。

 それは、僕たちが分かたれた一つの意志だからではない。  


 一方が他方を、己を完成させるための「支配対象」として認識したとき、世界を書き換えるための権限が発動するのだ。


「阿久津。……君は僕を、自分自身の罪を拭うための鏡像(スペア)だと定義した。……けれど、僕は今、その鏡を自ら粉砕した。スペアではなく、僕という個としての特異点(バグ)に目覚めたんだ」


 意識の深淵で、何かが噛み合った。  

 阿久津から流れ込んでくる膨大な情報の奔流を、僕は拒絶せず、むしろすべてを「僕の論理」で上書きし、飲み込んでいく。


「白砂さん。……君の隔離も、ここまでだ」


 僕は彼女の震える肩に手を置いた。それは慈愛ではなく、従順なパーツとして再構成するための、絶対的な支配の宣告。


「愛されることを望むのは、弱者の演算だ。……僕はこれから、君たちを愛し、支配することに決めた。僕が世界の定義者となり、君たちのエゴさえも僕の箱庭の部品に変えてあげる」


 愛とは、支配のことだ。  


 相手の運命を自分の掌の上に固定し、一糸乱れぬ論理で管理し続けること。    

 脳内で、再演(リドゥ)のプログラムが、かつてないほどの熱量で起動した。  

 視界が眩い白光に包まれ、空間が歪み、時間が巻き戻る際の軋み音が鳴り響く。


 絶望は、僕という主導者を誕生させるための産声に過ぎなかった。  


 「――再演(リドゥ)を開始する」


 白砂の悲鳴も、阿久津の戦慄も、すべてが僕の意志の下でゼロへと帰していく。  


 次に目を開ける時、僕はもう、誰かのために笑う僕ではない。  


 鏡の迷宮の支配者として、僕は三度目の、そして最後の人生を始める。

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