第六六話 踏み入れるモノ

 ☆八時四五分 調査船 船内医務室


 情けない。ウチは、自分が情けなかった。いざ現場を目の前にして、気を失いかけるなんて。あんな大口を叩いておいてこの有様じゃ、名を残すどころか恥を残すだけだ。


(無理はしないで。落ち着いたらあたしを手伝ってね)


 九瀬先生の言葉を思い出しながら、ウチはベッドの上にひとり横たわる。ワンダの人はやっぱり凄い。恐ろしい状況を目の当たりにしても、前へ進み続けられる。それも、ウチみたいな軟弱者を庇いながら……


「ママ……」


 スマホをいじれば、待ち受けに笑うママの写真。三年前、東京と共に消えたママは、こんなウチをどう思っているのだろう? 天国で、恥ずかしがっていないだろうか……


 不意にドアが開く。船医さんだと思ったウチは、慌てて振り向いた。


「船医さん、ごめんな」


 


 ……ウチの言葉は、プツリと途切れる。


 


 ドサリと音を立てて、赤い塊が部屋に倒れ込んだ。ドクドクと赤い液体が床に広がり、波に揺れる船に合わせて波紋を立てる。果たして、ウチの思考は停止した。目の前の紅に体が固まり、悲鳴さえ喉に詰まって出てこない。


 十秒後、倒れ込んできたそれが船医さんである事に気付いたウチは、慌ててベッドから飛び降りた。


「船医さん!?」


 船医さんの返事は、ヒュウヒュウという死の音色だけだった。喉元を抑え、溢れ出る赤で左手を汚しながら彼は何かを伝えるような視線を向ける。


「し、しず、ず、ずか、かに……」


 痙攣の中、こと切れる。状況が分からないまま、ウチは血の中で呆然と座り込んだ。さっきまでの状況が、天国のようにさえ思えた。怯えながらも、画面の向こう側にあるものだと無自覚に高を括っていた『死』。それが、何の脈略もなく唐突にウチの前に現れた。受け入れる暇も、正当性もない。まさに理不尽と呼ぶべきものが、そこにあったのである。


 ……飛びかけていた意識を引き戻すように、誰かの足音が聞こえてくる。咄嗟に助けを求めようと開いた口。だが、ウチの手は慌ててそれを塞いだ。


(……もし、船医さんが逃げてきたとしたら?)


 嫌な侵入思考だ。そう信じたかったが、ウチはそのストレスに従う事にした。咄嗟にベッドの下に飛び込み、血の中に体を潜める。怪獣とは比べ物にならいほどに生々しい匂いが鼻を突く。胃がひっくり返り、全て吐き出しそうだった。己と必死に戦い、声も内容物も出ないように口を両手で塞ぐ。

 極限的な状況の中、早まる鼓動。それだけでも死にそうな地獄だった。額が冷や汗に濡れ、混じり合った臭いが嗅覚を麻痺させる。

 

 ベッドの下から、ウチは部屋に入らんとする異形の濡れ足を見た……。

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