第9話|二人の管理者

ホワイトハウスの崩落した壁の向こう側で、世界は「黒い炎」に包まれていた。


燃えているのではない。物理的な秩序が崩れ、あらゆる物質が原油の粘性(ねばり)に飲み込まれ、原初的な混沌へと回帰しているのだ。アラン・クロウの執務室は、いまや大西洋の底に沈んだ沈没船のように、深淵の闇に満たされていた。


「……ぐ、あああああッ!」


アランは床にのたうち回った。彼の右半身は、皮膚を突き破って溢れ出したブラック・ゴールドの「鎧」に覆われ、指先からは鋭い黒の結晶が伸びている。それは「力」の象徴だった。世界を動かし、国を興し、敵を滅ぼす、剥き出しの強制力。


「……離せ……! 俺の身体を……これ以上、奪うな!」


「無駄よ、アラン。抵抗すればするほど、それはあなたの骨を砕くわ」


ルシア・マルケスが、漆黒の濁流を割って歩んできた。 彼女の姿もまた、変貌していた。彼女の左半身には、ベネズエラの地層が記憶する「痛み」が刻まれていた。搾取された労働者の涙、枯れ果てた大地、そして貧困の中で消えていった名もなき命たちの嘆きが、青白い光を放つ筋となって彼女の肌を走っている。


二人が向かい合った瞬間、部屋の真ん中で「黒い渦」が巻き起こった。


1

渦の中心から、幾千万の人間が同時に囁くような、地響きを伴う「声」が響いた。


『……一人は、あまりにも狭すぎる……』


「声」は、アランの頭蓋骨を直接揺さぶる。


『……一人の知恵、一人の善意、一人の傲慢。……それでは、我らの重みに耐えられぬ。器は割れ、中身は腐る……』


アランは視界が真っ赤に染まるのを感じた。


「……何が望みだ! 私は管理している! 私一人が、この呪いを背負えば済むはずだ!」


「いいえ、アラン! 資源はあなたに『自分と対等な重荷』を背負う者を求めているのよ!」


ルシアが叫んだ。彼女の左目からは、透明な涙ではなく、光を湛えた銀色の液体が流れている。


「あなたは『力』を選んだ。世界を救うという名目の、支配を。……でも、この資源には『痛み』を分かち合う者が必要なの。奪われた者たちの声を聴き、富の裏側にある絶望を抱きしめる者が!」


2

『……二人を選ぼう……』


声が、審判を下すように部屋中に鳴り響く。 アランの右腕から伸びた黒い触手と、ルシアの左肩から伸びた光の筋が、空中で複雑に絡み合った。


『……力を持つ者よ(アラン)。お前は、この富を流す管(くだ)となれ。……痛みを知る者よ(ルシア)。お前は、その流れを止めるバルブとなれ……』


「……二人で、一つだと?」


アランは喘ぎながら、自分の右手に宿る恐るべき質量を見つめた。 それは、一振りすれば一国の経済を消滅させられるほどの破壊的な「富」だった。


「アラン、手を伸ばして」


ルシアが、傷だらけの左手を差し出す。


「『一人で抱くな』……。資源がそう言っている。あなたが一人で正義を成そうとするから、それは暴走して怪物になる。私があなたの『ブレーキ』になるわ。あなたが富を注ごうとする場所に、私がその代償となる痛みを突きつける。……それが、これからの世界の『管理』なのよ」


「……そんなことが、可能か? 私は王として君臨した。君は、私を否定し続ける存在になるというのか」


「ええ。あなたが支配を望むたびに、私はあなたの心臓を刺す。あなたが善意に酔うたびに、私はあなたの耳元で死者の名前を囁く。……それが、管理者の資格。……耐えられる、アラン?」


3

アランは、ルシアの瞳を見た。そこには、かつての自分には決して持ち得なかった、深い「共感」の地獄が広がっていた。


「……ああ。耐えてみせるさ。一人でこの声を聴き続けるよりは、君に憎まれている方が、まだ『人間』でいられる気がする」


アランは血反吐を吐きながら、右手をルシアの左手に重ねた。


その瞬間。 爆発的な衝撃波がホワイトハウスを突き抜けた。 黒い濁流と、銀色の光が交差して巨大な螺旋を描き、ワシントンの空へと昇っていく。


アランの血管に流れていた「狂気」が、半分、ルシアの身体へと流れ込んだ。 代わりに、ルシアの抱えていた「数世紀分の嘆き」が、アランの脳内を凍りつかせる。


「……あ、ぐッ……! これが……君が見ていた世界か……!」


「……そうよ、アラン。……これが、あなたが『利益』と呼んでいたものの正体……。重いでしょう?」


二人は、重なり合った手を通じて、一つの巨大な「回路」となった。 暴走していた原油価格のモニターが、一瞬で静止する。 世界中の噴出していた油田が、まるで見えない指揮者に制御されたかのように、穏やかな脈動へと落ち着いていく。


4

嵐が去った後の執務室。 窓の外では、まだ黒い雨が降っていたが、その色はどこか透明に近づいていた。


アランとルシアは、互いの身体を支え合うようにして、瓦礫の中に立っていた。 アランの右目は黒く濁り、ルシアの左目は銀色に光っている。 二人はもはや、独立した個体ではなく、世界という巨大な秤(はかり)の両端に座る「天秤」そのものだった。


「……管理は、始まったばかりだ」


アランは、掠れた声で言った。 彼の右手からは、依然として黒い雫が滴っている。だが、それをルシアが左手で受け止めるたび、雫はただの水へと変わっていった。


「そうね。……でも、もうあなたは一人じゃない。あなたが独占しようとすれば、私が奪う。あなたが冷酷になれば、私が泣く。……世界は、私たちのこの『争い』の中で、ようやく均衡を保てるようになる」


資源は、二人を選んだ。 最強の力と、最大の痛み。 相反する二つの意志が、互いを監視し、否定し、そして繋ぎ止めることでしか、ブラック・ゴールドという魔物は眠りにつかない。


アラン・クロウは、大統領としての誇りを半分捨て、代わりに一人の「人間」としての苦悶を取り戻した。 彼は、隣に立つ女性の冷たい手を、折れんばかりに握りしめた。


「……さあ、世界を立て直そう。……痛みとともに」


その言葉が響いたとき、足元の原油は、初めて優しく凪いだ。


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