第8話|黒き資源の反乱

ウォール街の喧騒は、もはや経済活動の音ではなかった。それは、巨大な獣が断末魔を上げ、のたうち回る断層の軋みだった。


世界中の株価モニターが、血のような赤と、深淵のような黒に染まり、激しく明滅している。原油価格を示す数字は、一秒の間に千ドル跳ね上がったかと思えば、次の瞬間には一セントにまで暴落する。物理法則を無視したその数値の乱高下は、世界経済という名の精密機械に、砂ではなく「呪い」を流し込んだ。


「止まらない! アルゴリズムが、市場の意志を読み取れないんだ!」


ニューヨーク証券取引所のフロアでは、エリートたちが髪を掻き毟り、端末を叩き壊していた。だが、壊れたのは機械だけではない。彼らの鼻腔からは、あの甘ったるい、そして吐き気を催す「黒き資源」の臭いが立ち昇っていた。


1

ホワイトハウスの大統領執務室。アラン・クロウは、デスクにしがみついていた。 床は、足首まで浸かるほどの原油で埋め尽くされている。どこから溢れ出しているのかも分からない。壁の継ぎ目から、エアコンの吹き出し口から、そしてアラン自身の毛穴から、それは絶え間なく溢れ出していた。


「……あ、が……静まれ……! 私が管理者だ……私が価格を……秩序を……!」


アランが虚空を掴む。だが、彼の血管を流れるブラック・ゴールドは、主の命令を嘲笑うかのように熱く逆流した。


「無駄よ、アラン!」


ドアを蹴り開けて入ってきたルシア・マルケスの姿は、凄惨だった。彼女の衣服は黒く汚れ、その瞳は怒りと悲しみで燃えている。彼女の周囲だけは、原油が「畏怖」するように避けて道を作っていた。


「価格が乱高下しているんじゃない。資源が、世界中の人々の『パニック』と『強欲』を餌にして、笑いながら踊っているのよ!」


「そんなはずはない! 私は適切に……選別を……管理をしていたはずだ!」


アランが叫ぶと同時に、執務室の窓ガラスが外側から叩き割られた。 風とともに流れ込んできたのは、雨ではない。空から降る、粘り気のある漆黒の泥だ。ワシントンの空は、欲望が飽和したことによる「黒い極光」に包まれていた。


2

ルシアはアランの胸ぐらを掴み、彼を強制的に窓際へと引きずっていった。


「見て! あの通りを! あなたが『管理』という名で独占しようとした結果がこれよ!」


眼下のラファイエット広場では、信じられない光景が広がっていた。 魔法資源の恩恵を受けていたはずの市民たちが、互いに取っ組み合い、相手の喉に手をかけている。彼らの口からは、黒い泡が溢れていた。


「いい、アラン! 聞いて! この資源は“独占されると暴れる”のよ!」


ルシアの叫びが、雷鳴のように響く。


「これは数世紀、地底で『分かち合われること』を夢見て、押し潰されてきた怨念の塊。それをあなたが一人で抱え込み、他国を屈服させる道具にした。……資源はね、自分が誰かの『所有物』になることを、死ぬほど嫌っているの!」


「私は……人々のために……!」


「嘘をつかないで! あなたは自分の『正義』を満たすために、資源を檻に閉じ込めた! 檻に入れられた猛獣が何をするか、大統領なら知っているはずでしょう? 檻を壊すために、飼い主ごとすべてを食い殺すのよ!」


3

その瞬間、世界中の石油パイプラインが同時に悲鳴を上げた。 サウジアラビアの砂漠で、ロシアの永久凍土で、そしてベネズエラの深海で。 地下に眠る「意志ある原油」が、アランの管理を拒絶し、物理的な暴力となって地表へ噴出した。


『……独り占めは……許さない……』 『……すべてを……黒く染めろ……』


数百万、数千万の「声」が、アランの脳内で一斉に爆発した。 アランは冷たい原油の床に崩れ落ちた。彼の喉から、黒い塊がせり上がってくる。


「ルシア……止めてくれ……。このままでは、世界が……沈む……」


「止める方法は一つしかないわ。アラン、あなたは『管理者(支配者)』であることを捨てなきゃいけない。でも、今のあなたにはそれができない。……資源が、あなたの自尊心と癒着してしまっているから」


ルシアは、アランの掌を自分の掌で包んだ。 彼女の体温が、アランの冷え切った「黒い血」を微かに溶かす。


「市場が壊れているのは、あなたの心が壊れているからよ。価格が暴騰するのは、あなたの執着。暴落するのは、あなたの恐怖。……世界経済は、今、あなたという一人の人間の精神不安定(パラノイア)と同期してしまっているの!」


「……私が……世界そのものに……なっているのか……?」


アランは愕然とした。 彼が「この国は様子見だ」と冷酷に判断した時、その国の通貨は紙屑となった。 彼が「この国は救おう」と傲慢に微笑んだ時、その国では資源の過剰供給による大爆発が起きた。


善意はすでに、世界を窒息させる「絶対的な暴力」へと完成していた。


4

「見て、アラン。最後の審判が始まるわ」


ルシアが指差す先、ホワイトハウスの向こう側にある財務省ビルが、地下から噴出した原油の巨塔によって、紙細工のように押し潰されていた。 物理的な破壊ではない。それは、富という概念そのものが崩壊していく象徴的な光景だった。


アランは、砕けた窓から吹き込む黒い風を浴びながら、自分の指先を見つめた。 指先は、もはや皮膚の質感を失い、光を一切反射しない「虚無の黒」へと変わっている。


「……私は、救いたかっただけだ。……誰よりも、賢く、正しく……」


「その『正しくありたい』という欲望が、最大の毒だったのよ」


ルシアは、アランの肩を抱き寄せた。 それは、かつての同志としての愛ではなく、死を待つ受刑者への、最後の手向けのような抱擁だった。


外では、パニックに陥った世界経済の断末魔が、空を裂くような不協和音となって響き続けている。 アラン・クロウの帝国は、彼が愛し、管理しようとした「黒き血」によって、音もなく溶け去ろうとしていた。


「……ルシア……。私は、どうすれば、この声を止められる?」


「……自分を、殺すのよ。大統領としての、あなた自身を」


ルシアの言葉とともに、執務室の壁が崩落した。 そこから溢れ出したのは、純度百パーセントの、怒りに狂った原油の大津波だった。


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