四 惨劇

 しかし、私を襲った悪い予感通りに、父親の飲んだくれる姿と彼が母親に暴力を振るう嫌な場面を、その後もたびたび車窓から目撃するようになってしまった。


 母親が庇っているためか? 今のところ姉弟が殴られるような状況を見てはいない……といっても、ただ私が見ていないだけで、すでに行われている可能性もありえなくはないのだが。


 児童虐待を目撃したとなれば、さすがにその時は警察に通報するべきだろう。


 あんなにも心和む仲の良い家族だったのに、あの一家団欒の温かな空気感が今は微塵も感じられない……いったい、あの家族に何があったというのだろうか?


 心の癒しどころか、むしろ不安を掻き立てる存在へと化してしまった一家の変貌ぶりに、本気で警察への通報も考えはじめていたその矢先のこと。ついに父親は一線を越え、あの凄惨で悲しい事件がついに起こってしまう……。


 その日、残業ですっかり暗くなってから退社した私は、なんだかいつも以上に強い不安を抱きつつも、それでもいつものようにあの家の前を電車で通りかかった。


 気のせいなのか? それとも実際に速度を落としていたのか? 普段よりもゆっくり走っているように感じられるのろのろ運命で、電車は徐々に徐々に家の中が覗ける位置へと近づいてゆく……。


 この予感が当たらなけばよいのだが……まさに祈るような心持ちで、私は車窓のガラス窓に顔を押し当ててへばりつく……。


 と、いつものダイニングが見えたその瞬間、あの初めて暴力を目撃した日以上に目を大きく見開き、思わず私は「あっ…!」と声を発してしまった。


 真っ暗な夜の闇の中、そこだけが煌々と白い蛍光灯の明かりに照らし出された部屋の中では、父親の振り上げた一本の包丁が、今まさに母親の上へ振り下ろされようとする一瞬だったのである!


 だが刹那の後、額を赤く染めた母親がよろめいたところで、走り去る車両からはもう室内が見えなくなってしまう。


 いや、アガサ・クリスティでもあるまいし、さすがにそんな劇的な場面に出くわすことなんて現実世界ではありえないだろう……何かの見間違えか? ……だが、あの蛍光灯にキラっと光る感じは確かに刃物のものだった……。


 それに、あの部屋の隅では姉と弟が、小さな互いの身を寄せ合って、ぶるぶると震えているように私の目には映った……これまでのこともあるし、酔っ払って見境のなくなった父親が、そんな凶行におよぶようなことだってありえなくはない。


 そうだ! 誰か他の人も……。


 私は咄嗟に振り返ると、周囲の乗客達を見回してみた。他にも誰か、今の光景を目撃した乗客はいないのだろうか?


 しかし、周りの乗客達は皆、スマホを見たり、本を読んだり、窓の外へ注意を傾けている者は誰一人としていない……あの現場を目にしたのは、どうやら私ただ独りだけだったみたいである。


 斬りつけられた母親はいったいどうなってしまったのだろう……命に別状はないのか? それとももうすでに……それに、父親の凶行があれで終わったとも限らない……。


 だとしたら、あの子供達は……母親にあんなことをしてしまったのだ。あの姉弟も道連れに父親が無理心中を考えるなんてことも……。


 いろいろな妄想が頭の中をぐるぐると巡り、私はいてもたってもいられなくなった。


 だが、一瞬見ただけの光景だし、ひょっとしたら見間違いだったという可能性もなくはない……警察に通報して勘違いだったならばそれこそ大迷惑だろうし、余計、父親のアル中やDVに悪影響を与える可能性だってありえなくはない。


 まずは、ちゃんと現場まで行って確認してみなくては……。


 次の駅に停車するや否や、開いたドアから転がるようにしてホームへ駆け降りた私は、途中下車してあの家へ行ってみることにした。

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