第11話 黄金の盾、シグレと赴く

ゴン、ゴン、ゴン。


 無遠慮な音が、夜の静寂を殴りつけた。


 それは訪問ではなく、侵入だった。


 木製の扉が悲鳴を上げ、その振動が寝室の空気を震わせる。


昨晩、エレンを隣に寝かせた際に漂っていた、あの胸が詰まるようなぬるく甘い空気――英雄という重荷をひと時だけ忘れるための安らぎが、その音一つで無惨に引き裂かれた。


 エルフレッドの指先に微かに残っていた、エレンの髪の柔らかさや体温の記憶。


それすらも、今はもう数年前の出来事のように遠く感じられた。


「エルフレッド様! 敵襲です!」


 扉越しの声は、若く、そして切羽詰まっていた。言葉の端々に隠しきれない焦燥と、死への恐怖が滲んでいる。


 エルフレッドは反射的に椅子から立ち上がろうとした。


その際、無意識に右手で椅子の肘掛けを掴んで体を支えようとし――何の手応えもないことを思い出した。


 右腕は、そこにある。


 リリアナの魔法によって再生された、見た目だけの剥製の腕。


だが、脳が命じる『掴め』という信号は、どこまでも続く虚空に消えるだけだ。


支えを失った重心が、重力に従って右へと崩れる。


 体が不自然に傾ぐ。視界が歪む。


 だが、彼は倒れはしない。

 

 左手で机の角を、指が白くなるほどの力で強く押さえ、強引に体勢を立て直した。


 その一連の動作には、もはや焦りも苛立ちもなかった。

 

(……慣れたな)


 自嘲する気にもなれなかった。右腕という

『重石』を引きずって歩く感覚。


欠落を受け入れ、不足した機能を別の部位で補う。


その事務的な処理を平然とこなしている自分に、どこか冷めた視線を送るだけだ。


 彼は音を立てずに扉へ向かい、震えることのない左手で鍵を外した。


 扉を開けると、そこにいたのは鎧の紐すら満足に結べていない若き伝令の娘。


そして、その背後で鉄の仮面を被ったような険しい表情を浮かべる、シグレだった。


 王国最強の騎士団長。常であれば、感情の欠片すら表に出さぬ氷の女。だが今夜、彼女の吐息は白く、呼吸はわずかに荒い。


その双眸そうぼうには、冷たい怒りと、それ以上に切実な『何か』――飢えにも似たドロドロとした情念が渦巻いていた。


「……シグレ」


「南区画で暴動が発生しています」


 報告は簡潔だった。だが、一拍置いて彼女が付け加えた言葉は、湿った重い土のような響きを孕んでいた。


「……人間による反乱です」


 空気が、一瞬にして冷え切る。


 魔族という、理解不能で明確な『悪』を討つのではない。自分たちが盾となって守り続けてきたはずの、柔らかな肌を持つ同胞たちが、その内側から刃を剥いた。


 それは、ただ純粋に『守る』ことだけを己の核としてきたエルフレッドという盾にとって、最も残酷で、最も質の悪い変質だった。


 背後から、慌ただしい足音が響く。


 エレンが部屋から飛び出してきていた。整えられていない髪が乱れ、夜着の上にエルフレッドが貸した予備の上着を羽織っている。あまりに大きいその上着は、彼女の肩を頼りなく包んでいた。


 シグレの瞳が、凍りついたように細められた。


 彼女の鋭い視線が射抜いたのは、エレンの乱れた装いではない。


 ――彼女が、この『家』の中に、当然のようにという事実。


 英雄の生活圏。その最も深い中心。国家の至宝として、自分たちですら厳格な距離を保つことを強いられてきた『聖域』。


そこに、昨日今日現れたような後輩が、寝起きの、無防備な姿で存在している。


 シグレの胸の奥で、騎士としての誇りと、一人の女としての執着が、ぎりぎりと音を立てて激突した。


「先輩、私も――」


「いや」


 エルフレッドは即座に遮った。その声には、一切の議論を許さない拒絶があった。


「エレンは残れ。……これは、俺たちの仕事だ」


 彼は壁際に立てかけてあった、数多の戦傷が刻まれた大盾を左手で掴み上げた。


 本来、右腕で固定すべき革帯。彼はそれを左手で手繰り寄せ、端を口に含むと、奥歯で強く噛んで引き絞った。ギチギチと音を立てて腕に食い込む革の感触。


 その手際は、痛々しいほどに洗練されていた。腕を失ってから、彼が夜、どれ程の回数一人でこの『不自由』と向き合い、克服してきたかを、その無駄のない動きが残酷に物語っていた。


 シグレは一瞬だけ、その光景から目を伏せた。

 

(……こんなこと、本来させるべきじゃない。私が、私が彼の腕になっていれば……彼が、私にすべてを委ねてさえくれれば……)


 だが、その自責の裏側には、彼が自分なしでは何もできない存在になってほしいという、恐ろしいほどの独占欲が隠されていた。


「……行くぞ」


「わかったわ」


 シグレはエレンに対して、言葉はおろか一瞥すら与えなかった。


ただ、すれ違いざまに放たれた殺気にも似た冷気だけが、エレンの足をその場に縫い付けた。


 二人は夜の闇へと、溶け出すように足を踏み出した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 王都南区画。


 かつては人々の笑い声が絶えなかった下層居住区は、今や赤黒い炎に包まれていた。


 遠くで揺れる炎の影。肺を焼くような煙の匂い。そして、何より耳を突くのは、かつて守ると誓った者たちが発する、憎悪に満ちた怒号と悲鳴。


 それらはすべて、聞き慣れた『人の声』だった。


 臨時拠点の倉庫。その薄暗い影で、エルフレッドは壁に盾を預け、左手の指先で盾の縁のわずかな歪みを確かめていた。


 右腕という巨大な重心を失った盾は、以前とは全く異なる物理法則で動く。


左腕一本で、この巨大な金属の塊を自在に操り、死線を潜る。


それは、全く扱ったことのない未知の武器を、命懸けのぶっつけ本番で扱うに等しい感覚だった。


 その背後へ、シグレが気配を消して近づいた。


 彼女は周囲の兵たちが自分たちの様子を見ていないことを確認すると、祈りを捧げるかのように、音もなく彼の足元に跪いた。


「……エルフレッド」


 彼女の指が、力なく垂れ下がったまま固定された彼の右腕に触れる。


 力を込めれば容易に砕けてしまいそうなほど繊細に再生された、しかし、主の意志を一切通さない死んだ肉。


 シグレはそれを確かめるように、そして、あの日自分が守りきれなかった『罪』を自らの魂に刻みつけるように、慈しんだ。


「……無理は、しないでください」


「心配性だな」


彼は笑おうとしたが、上手くいかなかった。

口角がわずかに引きつり、その不自然な笑みは、闇の中にすぐにかき消された。


「俺は盾だ。壊れても、折れても、そこに立ち続ける。それが俺の生きる意味だ、シグレ」


 シグレは、その言葉を否定しなかった。


 いや、否定できなかったのだ。彼からその『盾』としての自負を取り上げてしまえば、後に残るのは空っぽの抜け殻だけだと。


そして何より、彼が盾であることを辞めた時、自分は彼に縋る理由すら失ってしまうと知っていたから。


 だが、シグレは静かに、深淵を覗き込むような心地で思う。

 

 この人は……自分が壊れていることに、もう気づいていない。

 

 腕を失い、感覚を失い、それでもなお『健全』であろうとするその魂。


傷つくことを『当たり前の消耗』として切り捨てるその精神こそが、誰よりも深く、救いようもなく壊れているのだと。


「……必ず、戻ってきてください。もし貴方の左腕まで失うことになったら、私は――」


 その先を、彼女は飲み込んだ。


 失ってほしくない、という純粋な騎士の願い。

そして……獣の渇望。両腕を失い、立ち上がることもできなくなった彼を、自分という檻に閉じ込める。

そんな妄想が、彼女の理性の裏側で甘く囁いていた。自分でも、どちらが本音か判別がつかない。


「約束しよう」


 その約束が、どれほど脆い氷の上にあるものか。


 二人とも、気づかないふりをした。


 シグレは立ち上がり、腰の剣を引き抜いた。


 金属が擦れ合う、冷たく、飢えた音が夜の空気を切り裂く。


 英雄と、その右腕。


 まだ誰も、この戦いの先に何があるのか、何が正義なのかすら分かっていない。


 だが――内側からの歪みは、確実に、音もなく彼らを浸食していた。


 シグレは、エルフレッドの不自由な右肩の残影を見つめる。


 炎を映したその瞳は、濁った琥珀のようにどろりと輝いていた。


 シグレは、エルフレッドの不自由な右肩の残影から、視線を逸らせなかった。


 あの腕が、もう二度と彼の意思に応えることはないという事実。


 それを誰よりも理解しているのは、他ならぬ自分だった。


……壊れているのは、腕だけじゃない


 彼は、失ったものを数えない。

 痛みを痛みとして扱わない。

 守れなかったことすら、『仕方が無い消耗』として胸の奥へ押し込めてしまう。


 それが、英雄として正しい姿だと信じている。


でも、それは……


 それは、生き方ではない。

 死に方を、少しずつ引き延ばしているだけだ。


シグレの胸に湧き上がったのは、独占欲ではない。

 まして、支配欲でもなかった。


 ――恐怖だ。


このまま彼が戦い続ければ、次に失うのは腕では済まない。

脚かもしれない。

視力かもしれない。

あるいは、盾として立ち続ける理由そのものか。


 それでも彼は、立つだろう。

 立てなくなるその瞬間まで。


……お願いだから


 やめてほしい、とは言えない。

 盾であることをやめろなど、言えるはずがない。


 それを言えば、彼はエルフレッド・レギウスではなくなる。


だから、せめて


 せめて、自分が見ているところで。

 せめて、自分の剣が届く距離で。


彼が壊れていくなら、最後まで見届けるのは――

 その責任を負うのは、自分でありたい。


 もし彼が、歩けなくなったとしても。

 盾を構えられなくなったとしても。


 それでもなお、彼が英雄であろうとするのなら。


……私は、その隣に立つ


 影でもいい。

 右腕の代わりでもいい。


 彼が世界を守るというなら、

自分は、彼が壊れきってしまわないように守る。


 それが、騎士として正しいかどうかは分からない。

 ただ、それだけが――今の自分に残された、唯一の忠誠だった。

 

「行こうか。……反乱を鎮める。俺に何かあったら頼んだぞ。『王国最強。』」


 エルフレッドの静かな、だが確かな合図とともに、二人は闇の中へと走り出した。


(王国最強……ね、大切な人ひとり守れない私が……)


 火の手が上がる街路の先。


 そこで待っているのは、同胞の血か、それともさらなる英雄の欠落か。

 

 英雄の歩みは、止まらない。


 その影が、どこまでも長く、暗く、彼を飲み込もうと伸びていることしているとしても━━━

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