第8話:侵犯

 上で。バキッ。バキッ。ドーン! 巨人が骨を折るような音。見えない天井が割れた。青い光に対する闇の蜘蛛くもの巣状の亀裂。


 石の粉塵が空気を詰まらせた。目をくらませ、窒息させる。


 ブーツの下の石が座屈ざくつした。俺を横に投げた。


 それから岩が裂ける悲鳴。圧力。それが頭蓋に叩き込まれた。氷の棘。深く突き刺さる。


 目の奥に巣食うあの馴染み深い重さ。今は耐え難いまでに膨れ上がっていた。


 頭が裂けそうだ。爆発しそうだ。


 あえいだ。視界が泳ぐ。粉塵の向こう。上で形が動いた。離れた。


 それから。


 それが落ちた。


 奔流ほんりゅう。突然。目がくらむ。青い。凍る。粘りつくような。神聖なものすべてを拒絶するかのように。


 それが叩きつけた。この世のものとは思えぬ液体の滝。俺をずぶ濡れにした。


 皮膚が焼けた。火ではない。氷。存在の芯まで侵されるような深い冒涜ぼうとく


 息が詰まった。奪われた。


 それから。点火。


 俺の中の聖蝕せいしょく。もはや眠ってはいない。神聖な冷たさに対して爆発した。


 痛み。


 ただの痛みではない。精神がばらばらにされていく。


 * * *


 引き裂かれた。押しつぶされた。氷と火が同時に。


 紫の目の魔族が俺の横で痙攣けいれんした。硬直した。手足が痙攣けいれんする。あいつの声なき絶叫。異質で鋭く純粋な苦痛の奔流が、俺の意識を内側から引き裂いた。あいつの目。大きく焦点が合わない。紫の虹彩こうさいが黒に飲み込まれた。


 あの呪われた青い液体。焼けつくような流動。俺の意識。あいつの意識。無理やり一つに叩き潰された。


 吐き気を催す突然のよろめき。


 俺自身のものではない思考——鋭く冷たく黒曜石こくようせきのような——が恐慌を切り裂いた。俺は自身の燃え盛る恐怖の中へ、あいつの氷のような恐怖が流れ込んでくるのを感じた。


 苦悶の熱。そしてその中を通って。あいつ。


 衝撃的な認識。静まり返った捕食者の気配。氷の虚空、圧倒的。俺の精神に激突する。感じることができた。あまりにもはっきりと。


 精神的な傷。生々しい。俺たちの間で出血している。


 俺のものではない記憶の風景が記憶を引き裂いた。


 世界が砕けた。


 百万の感覚の奔流。どれも完全に俺のものではない。二つの精神。強制的に。残忍に。境界を溶かして絡み合った。


 洞窟の壁がのたうった。石が病んだ筋肉のように流れた。色が滲んだ。砕け散った光と痛みの破片。


 崩壊する岩の轟音。溺れる叫びの合唱。俺の頭蓋の中で。


 視界が砕けた。鏡のガラスを打った。映像が回転した。増殖ぞうしょくした。視点。消えた。落下。


 俺のものではない手足。爪が石を掻く。異質な神経を衝撃が駆け巡る。


(俺のじゃない! 俺の体じゃない!)


 恐怖。圧倒的。窒息させる。俺のだけではない。あいつの。冷たい捕食者の恐慌。俺自身の恐怖と融合した。境界なし。共有された侵犯だけ。


 生存本能。異質。鋭い牙を持つ。絶望的。


 それから。閃光。


 俺自身の顔。すぐ近く。映った。俺のものではない目に。苦悶にゆがんだ。俺の苦悶。見つめ返す。あいつの恐怖に映った。


 現実。消えた。


 * * *


 苦痛が目の奥で爆発した。石の床が俺に叩きつけられた。


 涙でぼやけた視界。急速に薄れていく。


 魔族が見えた。紫の目の。まだ地面で痙攣けいれんしている。俺と同じだ。俺と同じように壊れている。


 それから。無。


 闇。


 * * *


 耳の中で轟音ごうおん。それから薄れゆく雑音の中から。声。遠い。歪んだ。怒りで鋭い。


「今だ! 押さえつけろ!」


 ライラの声か?


 意識が暴風雨ぼうふううの中の蝋燭ろうそくのように頼りなく明滅めいめつした。


 地面にいた。冷たい石。濡れている。手足が重い。反応しない。


 だが見えた。ぼやけた形。松明の光。動いている。


 中央で何かが動いている。ボーリン——か? 誰かを押さえている。魔族だろうか。血が見える。誰のだ。


 ライラ。たぶんライラだ。立ち上がっている。頬から血を流しながら。ナイフを抜いて。顔は悲しみと怒りに歪んでいた——ように見えた。


 そしてキール……違った。戦っていない。奥の方で。ひざまずいている。誰かを抱きしめている。エララだ。エララの血まみれのぐったりとした体を不器用な腕で。松明の光が彼の顔を照らし、涙と血と泥の汚い筋が浮かび上がった。体は抑えきれないすすり泣きで震えていた。


「ごめん……エララ……ごめん……」


 壊れ、息が詰まるようなささやき。


「俺が……俺がもっと強かったら……。お前を守れたはずなのに……」


 顔を上げない。血も、魔族も、俺も——見えてないんだろう。彼にとって、もう戦いは終わったのかもしれない。腕の中の冷たくなっていく重みだけが、世界のすべてなんだろう。


 * * *


 それは警告なく来た。


 あいつの恐怖が俺の神経を直接叩いた。


(殺される——!)


 俺の思考ではなかった。だが俺の体が反応した。心臓が跳ね上がった。筋肉が硬直した。まるで俺自身が死に直面しているかのように。


 押さえつけられている。重い体が上に。動けない——俺の体は自由なはずだ。なのに息ができない。胸が圧迫される。あいつが押さえつけられているのに、俺の肺が潰れる。


 視界がぐらつく——俺の視界じゃない。天井が見える。歪んだ顔が見下ろしている。ボーリンか。ナイフが迫ってくる。ライラのナイフだ。


 あいつの恐慌が、俺の体を内側から引き攣らせた。


「こいつ……! きにしてやる!」


 ライラが叫んだ。


 血が裂けた頬から滴った。ライラのナイフ。今は安定して。押さえつけられた魔族の喉を狙っている。たぶん。


(だめだ!)


「待て!」


 言葉が喉から引き裂かれるように飛び出した。生々しく。無意識に。俺自身も驚いた。


 訓練が、本能が、命じていた。殺せ。とどめを刺せ。脅威を排除しろ、と。だが流れ込んでくるあいつの恐怖が、俺の本能を上書きしていた。あいつの死が迫るたびに、俺の体が勝手に拒絶反応を起こす。


 こめかみを掴んだ。押し寄せる波のような感覚の中、必死に意識を繋ぎ止めようとして。


「やめろ! ただ……待て!」


「正気か、アーレン?!」


 ライラが吐き捨てた。ナイフをより高く上げて。


「こいつがエララを殺したんだ! 考えることなんて何もない!」


「ライラ、奴はあの液体にやられたんだ! 正気じゃない、下がれ!」


 ボーリンがうめいた。声が緊張している。


「これは違う!」


 俺は叫んだ。よろよろと立ち上がって。手を半ば上げて。制御不能に震えている。


(違う……この感覚……あいつの恐怖が俺の神経を……!)


「どけ、アーレン!」


 ライラが吠えた。そして俺を突き飛ばした。強く。


 よろめき下がった。何かにぶつかった。壁か。背中が岩に当たる。


 また震動が石を通って転がった。それほど激しくない。だがより鋭い。きごてのような痛みが頭蓋を貫き、稲妻のように繋がりを駆け巡った。


 * * *


 かすみの中から見た。ぼやけている。何が何だか。


 ライラ。ナイフを上げている。誰かの上に。魔族の上だ。ボーリンが押さえつけている。刃が松明の光を反射した。振り下ろされる——


 俺の首筋が総毛立った。


 あいつの喉ではなかった。俺のだった。


 冷たい鋼を感じた。自分の首の上に構えられた。重さ。意図。逃げ場がない。


 太陽を見て目を細めるように。熱いものに触れて手を引くように。考える隙もなかった。


 あいつの死の予感が、俺の神経を直接焼いた。


 俺の腕が動いた。


 速く。速すぎる。俺が命じたのではない。俺の意志ではない。だが俺の腕だ。俺の筋肉だ。あいつの恐怖に反応して、勝手に。


 壁から跳ねるように前へ。長剣。いつから握っていた。振り抜かれた。


 シュッ。


 何かを切った。肉の感触。骨に当たる擦れる音。


「ああああっ!」


 悲鳴。ライラの悲鳴。信じられない。裏切り。純粋な苦痛。それは洞窟を引き裂いた。


 ナイフがガラガラと石に落ちた。よろめく形。片手を傷に当てて。血が上着を浸した。深紅。広がる。速く。


 ライラの目は俺に釘付けになった。大きく。愕然がくぜんとして。混乱して。


(俺が……切った……? ライラを……?)


 それから振り返った。トンネルの方へよろめいた。壁に沿って。暗い跡を後ろに残して。


 俺の視界が明滅した。ライラの姿が闇に溶けていく——俺の意識と一緒に。


 ぼやけた視界の向こうで、ボーリンの形が動いた。こちらを向いている——と思う。怒りか。信じられないという顔か。分からない。


「アーレン! てめえ、何してやがる!」


 魔族の腕の一つを離した。そして腰の戦斧に手を伸ばすとその刃の先端を——どこに? 魔族の喉元に突きつけた。膝があいつの胸を押さえつけた。


「キール! 奴を拘束こうそくしろ!」


 ボーリンの声が、遠くで吠えていた。


「奴はまともじゃない! 俺はこの悪魔を片付ける!」


 怒りを帯びた声が、意識の淵で響いた。

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