第7話:喉を裂く爪

 ――遅すぎた。


 横の空気が裂けた。


 グシャリ。


 血が降ってきた。温かい。濃い。ねばつく。


(熱い……! 血だ!)


 鉄の悪臭が鼻孔びこうを衝く。視界が一瞬、赤に染まった。


(爪――当たった――)


 痛みに備えた。来ない。


(俺じゃない……?)


 代わりに、背後で音がした。詰まった濁ったうめき。喉の奥から泡立つような。


「いやああああっ!」


 ライラの悲鳴。生々しい。湿った石に反響し、突然の沈黙を引き裂いた。


 俺は振り向きざま、目から血糊ちのりを拭った。


(自分の血か? ライラの?)


(違う。エララの。)


 温かさが肌に馴染む。だが腹の底から、空洞のような冷たさが込み上げてきた。


 エララ。あいつの喉。


 ――


 引き裂かれた肉のめちゃくちゃな塊。きらめく軟骨なんこつ。キールの松明の光が骨に当たった所で、椎骨ついこつが湿って輝いている。


 紫の目の魔族。数歩先に立っていた。黒曜石の爪が暗い血を滴らせている。一撃だ。いつの間に。見えなかった。


 エララの手。あの繊細な癒しの手が、もはや存在しない喉を求め、むなしく宙を掻いていた。


 血が脈打つ。おぞましく。濃い暗い塊で洞窟の床に命を汲み出していく。


 エララの目が俺を見つけた。常は落ち着き、理知的りちてきな光を宿やどしていたその目が。


(やめろ……そんな目で俺を見るな……!)


 助けを求める無言の叫び。その光が——消えた。


 膝が崩れた。体は捨てられた布のように崩れ落ちた。手足があり得ない角度に折れ曲がる。音もなく、ただ……命が消えた。


(速すぎる……動くのさえ見えなかった……女神め、エララ……俺……)


 血でぬるぬるしていない方の手が剣の柄を掴んだ。生の衝撃に、俺は一度だけ聖蝕せいしょくの震えを忘れた。激情げきじょうが血管を駆け巡る。寒さを麻痺まひさせる。恐怖を麻痺まひさせる。ほとんど。


「エララ……?」


 キールの声。最初は信じられないというように、か細くささやかれた。


 エララの喉があったはずの血まみれの虚無に視線が吸い寄せられた時——目が変わった。何かが壊れた音が聞こえた気がした。


「う……あああああああああああっ!」


 言葉にならない。喉の奥から引き裂かれるような純粋な苦痛と怒りの咆哮ほうこう。狂ったように俺を見た。


「アーレン! 何とかしろ! 頼む、エララを……!」


 だが助けなどないという絶望か、魔族の冷たい視線が彼を捉えたからか、その懇願こんがん呪詛じゅそへと変わった。


「嘘だ……エララ! 目を開けろ! この……この化け物がっ!」


 剣を上げた。手は激しく震えている。


 だが彼は魔族に向かわなかった。


 エララの傍に崩れ落ちた。


 両手で何かを掬っている。血を。溢れ出る血を。


 それを——エララの喉に戻そうとしている。


(やめろ、キール——)


 だが俺の口は動かなかった。


 * * *


 視界の端で、動き。


 紫の目の魔族。


 うろこの尾。先端に黒曜石のように鋭い何かを備えた暗い筋肉のむち。空気を切り裂く。俺をぐように振るわれた尾がシューと音を立てた。


 あの目。あの忌々いまいましい紫の目。俺に狙いを定めている。冷徹れいてつに新たな獲物を値踏ねぶみする捕食者の眼差し。


 あいつの獲物。


 体が先に動いた。思考が追いつく前に。


 受け流し。


 半ば抜きかけていた長剣が信じられないほど硬い何かと衝突した。うろこか? 骨か? 薄暗い青みがかった松明の光の中で火花が散り、紫の目の刺客しかくの鋭い異質な顔立ちを一瞬だけ照らし出した。


 腕を駆け上がった衝撃に肩まで痺れた。一歩よろめき下がる。ブーツの下で小石がずれた。


 一瞬、思考が白く飛んだ。


(つええ……! 速すぎる……! 女神め、あの尾は……!)


散開さんかいしろ! 壁を背に、遮蔽しゃへいを使え! 的になるな!」


 ボーリンの怒号どごうが後ろから飛んできた。


(こんな時でも冷静か……)


「クソ野郎が!」


 だがキールはボーリンの命令を無視した。紫の目の魔族まぞくに真っ直ぐ突進する。警戒も何もない。ただ真っ直ぐに。


 剣を高く掲げ、不器用で無謀な一振り。エララの血と盲目的な怒りに突き動かされているようにしか見えなかった。


 上から。無音の落下。


 俺が気づきもしなかった高い岩棚から、闇が剥がれ落ちた。最初のより小さい。だが同じくらい速い。燃えるような橙色の目。薄闇の中の残り火のこりび


(ちくしょう、二体もいやがったのか!)


 それは突進中のキールを横から迎え撃った。爪ではない。残忍な回し蹴り。目にも止まらぬ速さで命中した。


 ドンッ、ミシッ。


 吐き気を催すほど大きく湿った音。キールの胸に直撃し、壁に叩きつけられる。高さから落とされた穀物袋のように。


 空気が肺から一気に噴き出した。肋骨ろっこつが折れる音が突然の恐ろしい静寂の中で湿って響いた。


 キールは壁を滑り落ち、血と汚れの暗い跡を残して塊となって倒れた。動かない。松明がガラガラと音を立てて転がり、湿った石の上で炎が弱々しく揺らめいた。


 * * *


 二体? いや、確かに二体だ。前に一体。右の方にもう一体。挟まれた——のか?


 魔族たちは煙のように影のように舞った。一撃離脱——そういうことか。闘から襲い、反撃が来る前に消える。


 流れる液体のように滑らかで、ちらつく松明の光の中で姿がほとんどかすんで見えた。滑るように壁の岩や石柱から跳ね返る。洞窟そのものを武器として使う。


 ボーリンが前に出た。どこから現れた。戦斧を構え、紫の目の者を迎え撃とうとする。


 紫の目の者がボーリンの重い戦斧の一振りを軽々とかわした。あざけるように細い体をわずかにひねるだけ。


 黒い影が彼の防御をすり抜ける。通り過ぎざまに黒曜石の爪がボーリンの前腕ぜんわんを深く切り裂いた。重い革と下の肉を引き裂いて。


 ボーリンがうめいた。喉から絞り出された痛みの荒い音。よろめきながらも影に溶け込む前に反撃はできない。暗い血が腕から湧き出た。


 壁の方で、キールが体を起こした。どうにか。生きてたのか。血と歯の破片を吐き出す。


 顔は苦痛と純粋な憎悪に歪んでいた。肋骨が引き裂かれた血に染まった上着の下で不自然な角度で突き出ている。


「畜生どもが!」


 声は壊れたようにかすれていた。


 再び橙色の目の魔族に身を投げた。無謀に。剣が荒々しい軌道きどうを描きながら振り回される。一振り一振りが、もう何も考えていないようだった。


 一瞬、キールの剥き出しの凶暴きょうぼうさに橙色の目の魔族がたじろいだ。だがその絶望的で見え透いた一撃を、魔族は水銀のように滑らかな動きでかわす。


(遊んでやがる……)


 ライラは——どこだ。


 いた。さっきと違う場所。岩柱の影から影へ、いつの間にか間合いを詰めていた。


 低い。ナイフは前腕に沿わせて光を殺している。目は紫の目の魔族を追っている。瞬きもせずに。


 あの構え。見覚えがある。


 待っている。読んでいる。


 * * *


 洞窟が暴力で脈打った。粉塵。悲鳴。甲殻こうかくに鋼がきしむ音。骨が砕ける湿った音。


 視界の端で、ライラが動いた。


 速い。低い。紫の目の魔族のふところに——いつの間に。


 爪が振り下ろされた。ライラの顔面へ。斜めに。速く。


 いない。


 膝を落とし、上体をひねっていた。爪が肩口を通過する。髪が一房、宙に舞った。


 ナイフが跳ね上がる。脇腹わきばらうろこの隙間へ——


 尾。


 低い。横から。視界が黒い軌跡を捉えた時には当たっていた。


 パシッ。


 鞭が肉を裂く音。


「ぐあっ!」


 頭が横に弾けた。足が石から離れた。壁に当たり、ずり落ちた。


 片手が頬を押さえる。指の間から血。


 もう片方の手は、まだナイフを握っていた。


 魔族はライラを見もしなかった。


 その時、洞窟が震えた。震動ではない。うめき。山の臓腑ぞうふから深く響く。


 厚い粉塵が見えない天井から降った。石が洞窟の壁を転がり落ちた。


 突然の静寂に誰もがきょを突かれて凍りついた。一瞬、圧迫的な違和感さえも鈍った。魔族の動きが——止まった。一瞬だけ。


(今だ!)


 橙色の目の魔族が上を見上げた。燃える目が大きく開いた。


 俺は突進した。激情が全身を駆け巡った。生々しく絶望的に。脇腹の痛みを焼き消した。


 長剣が青みがかった松明の光で閃いた。ガシュッ。鋼が鱗の肩に当たった。深く食い込んだ。黒い血が飛び散った。


 だが一撃は分厚い鱗にその勢いを殺され、弾かれた。


 魔族がシューと鳴いた。鋭く。激怒して。よろめき下がった。今は遅い。だが倒れない。


 それは紫の目の者を見た。警戒の、あるいは理解の閃き。


 紫の目の魔族は天井を見た。それから負傷した者を。壁の裂け目——あの光る青い液体をにじませている——がより速く滲んでいた。


 舌打ち。喉の奥から発せられた鋭い命令の声。そして出口トンネルに向かって頭を振った。


 撤退だと?


 橙色の目の魔族は離脱した。キールの方を見もしなかった。狂った振りをすり抜けて、まるでそこに誰もいないかのように。負傷した肩を押さえながら、トンネルの闇に消えた。


 紫の目の魔族が続こうと振り返った——


 逃がすか。


 俺は踏み込んだ。剣を振り上げ、その背中に迫る。あと一歩——あと一撃——


 その時。


 世界が裂けた。

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