さゆりの怪談――廃病院

その夜、さゆりは夜空をふわふわと漂っていた。

月は薄雲に隠れ、風が不穏にざわめいていた。


目的地はいわく付きの廃病院。

近くの怪異が「絶対に入るな」と忠告してきた場所だ。


そう言われると、行きたくなるのがさゆりだった。


――危なくなったら逃げればいいし。


そんな軽い気持ちで、朽ちた病院の扉をすり抜けた。


内部は荒れ、壁には無数の落書き。

廃墟らしい荒廃した光景が広がっていた。


好奇心のまま、あちこちを見て回った。

漂っているうち、床が不自然なほど綺麗なことに気づく。


……最初から、こんなだったっけ?


思い返しても記憶になく、疑問を抱いたまま、さゆりは廊下に足をついた。


カツン。


足音が響いた瞬間、目を見開く。

幽霊なのに、音が鳴った――


そのとき、遠くからコツ……コツ……と靴音が近づいてくる。

一定の間隔で、ゆっくりと。


好奇心が疼く。けれど、それ以上に本能が叫んでいた。


――逃げなきゃ。


壁へ向かって飛び込んだ――が。


「えっ」


額をぶつけた。すり抜けられない。

慌てて音の方を見ると、白衣姿の誰かがゆっくりと近づいてくる。

その足取りは遅く、まるで足音をわざと響かせているようだった。


逆方向に飛ぼうとする――が、またしても壁にぶつかった。

何も見えないのに、確かにそこに壁がある。

その向こうには、荒れた廊下が見えていた。


――ここはあいつの『巣』だ。


そう理解したときには、もう遅かった。

足音が、背後から迫ってくる。


一か八か。

さゆりは怪異の方を向き、真横を全速力で飛び抜けた。

一瞬、何かをかすめた気がしたが――どうにか抜けた。


――やった――


……と思った瞬間、また額に衝撃が走った。

目の前には荒れた廊下が見えるのに、進めなかった。


振り返ると、看護師の姿をした怪異が――うっすらと笑っていた。




気づけば、さゆりは手術台の上にいた。

大の字に寝かされ、手首と足首は何かで固定されている。


動けない。逃げられない。


薄暗い部屋に、ぬっと白い顔が現れた。

さっきの看護師だ。

手には銀色のメス。


――幽霊に刃物なんて効くわけがない。


けれど、拘束され、壁も抜けられなかった。

その現実が恐怖をはっきりと形に変えていた。


「やめて……外してよ……」


必死に懇願しても、怪異は無言のまま、足首にメスを当て――


沈めた。


「……っ、あ、ああああッ!!」


焼けるような痛みが走る。

幽霊のはずなのに、痛い。はっきりと痛い。


幽霊になってから、痛みで叫んだのは初めてだった。

――ましてや、涙なんて。


「なんで、なんでこんな……!」


メスはいたぶるように、ゆっくりと動いた。

引き裂くたびに悲鳴が上がり、体が無意識に逃げようとよじれる。


痛い。怖い。助けて――!


涙でにじんだ視界の中、怪異は何かを掲げた。

それは――スニーカーを履いたままのさゆりの足だった。


――お気に入りのスニーカーだったのに……


時間の感覚が失われるほどの拷問が続いた。

指、耳、髪、目――あらゆる部位が、奪われていく。


やがて耳元に、ささやくような声が落ちた。


「また夜に来てあげる」


怪異が消えたあと、手術台に貼り付けられたまま、さゆりは泣き続けた。


あの忠告をちゃんと聞いていれば。

もっと早く逃げていれば。


絶望の空間で、静かな嗚咽だけが響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る