碧き帝都、あるいは不完全な供養を巡るプロトコル
桃馬 穂
第一話:鉄の枷、銀の糸
プロローグ:ゴールドベルグ変奏曲の静寂
僕は蓄音機の針を上げ、グレン・グールドが一九八一年に録音した『ゴールドベルグ変奏曲』のレコードを選んだ。
真空管が温まり、最初の一音が零れ落ちる。それは調律された氷の粒が、冷たい銀の皿に触れたような、極限まで抑制された音だった。
一九五五年の若き日の録音とは、まるで別の生き物だ。かつての疾走感は消え去り、そこにあるのは、死を目前にした人間だけが手に入れる沈黙――音と音のあいだに残された、言い残しの余白だった。
ときおり旋律の隙間から、彼自身の微かな鼻歌が漏れ聞こえてくる。癖だと言ってしまえばそれまでだが、僕には、回路の奥底で迷った死者の意識が立てるエコーのようにも聞こえた。
*
「蓮見さん、この曲はどうしてこんなに、……何もかもが終わってしまった後のような音がするんでしょう」
小春が、自分の義体の指先をじっと見つめながら言った。レンズ状の瞳に、真空管の琥珀色の光が反射している。磁器の縁に触れた指先が、チリ、と金属の匂いのする音を鳴らす。
「たぶん、バッハという男が、世界の構造そのものを楽譜に書き込もうとしたからだよ」
僕は背もたれに深く身体を預け、目を閉じた。
「そしてグールドは、その構造の隙間に漂う、どうしようもなく個人的な孤独だけを掬い上げたんだ。完璧なシステムなんてどこにもないし、完璧な救済だって存在しない。僕らにできるのは、こうして不完全なアリアを聴きながら、次の夜が来るのを待つことだけなんだよ」
「……詩人みたいです」
小春はそう言って、カップを置いた。その動作が妙に丁寧で、僕は少しだけ可笑しくなった。
僕の助手はAIだ。けれど、帝都の煤煙が降り積もる夜に、彼女はしばしば人間よりも人間らしい。
第一話:鉄の枷、銀の糸
帝都の夜は、ひどく混濁している。石炭を焼く煤煙と、空中を飛び交う網膜投影広告のノイズが混ざり合い、視界をセピア色の砂嵐のように染め上げ、その上に広告の碧い残光が薄く貼りついているのだ。街灯の橙とディスプレイの青白さが、同じ石畳の上で互いを汚し合っている。
僕は古い雑居ビルの三階にある事務所で、一人、コーヒーミルを回していた。真鍮の歯車が噛み合う音は、静寂を少しずつ削り取っていく。削られた静寂は粉になり、きっとどこかへ散っていくのだろう。
「蓮見さん、また真空管が不機嫌ですよ。このままだと、次の死者は吃音混じりの幽霊になってしまいます」
助手の小春が、僕の淹れたてのコーヒーを自分の磁器カップに注ぎながら言った。彼女の指先は、帝都電信局が廃棄した旧式の義体(オートマタ)を僕が改造したものだ。彼女がカップに触れるたび、チリ、と硬質な金属音が響く。
「完璧な死者なんてこの世には存在しない。誰だって、言い残したことの半分も言えずに消えていくんだ。ノイズがあるくらいが、かえって人間らしい」
「それは単なる怠慢です。あるいは、あなたの美学という名の言い訳です」
小春は淡々と指摘し、それから蓄音機の針を調整した。針圧の調整は、口寄せの儀式と同じくらい繊細だ。ほんの僅か狂うと、死者の声は歪む。歪んだ声は、残された者の心も歪める。
僕の職業は「口寄せ師(デジタ・イタコ)」という。
死者の脳に遺された残留思念(ログ)を「写し鏡」と呼ばれる銀の円盤に転送し、それを汎用義体に憑依させる。
僕に許された時間は、わずか十五分。
――それがこの街の、不完全な供養プロトコルだ。
その短い時間の間に、遺族は死者と語らい、あるいは罵り合い、断絶した縁を繋ぎ直そうとする。
家庭裁判所が扱うような泥沼の遺産争いから、心中し損ねた男の未練まで、ここは「人間交差点」の掃き溜めのような場所だった。法律が扱えない感情の残骸が、夜のうちにここへ漂着する。
棚には、依頼人の名が書かれていない封筒がいくつも並んでいる。名前を書けば、その瞬間に物語が固定される。固定されると、救われなくなる感情がある。
僕は封筒をラベルで管理する代わりに、香りで覚える。焦げた砂糖、湿った土、消毒液、安物の香水。人間はいつも、匂いの形で後悔を持ち込んでくる。
窓の外では、往来する蒸気飛行船が巨大な深海魚のようにネオンの海を泳いでいた。たまに、ホログラムの鯨がビルの隙間をすり抜けていく。広告だ。だが、帝都では広告と神話の境界が薄い。僕は、あれがどこか本物の魂の輪郭を借りている気がしてならない。
ふと、一人の哲学者が言った言葉を思い出す。――『記憶とは、僕らが正気を保つために作り上げる、都合の良い創作物に過ぎない』。
だとしたら、僕が呼び出しているのは「魂」なのだろうか。それともただの「精密な嘘」なのだろうか。あるいは、嘘に似た魂なのか。魂に似た嘘なのか。
ドアを叩く音がした。
それは控えめだが、どこか冷徹な響きを帯びていた。冬の夜の底から響いてくるような、凍てついた打鍵だ。
「お客様のようですよ、蓮見さん。それも、ひどく上等な香水を纏った」
小春が音もなく立ち上がり、ドアを開けた。
冷たい夜気が事務所に流れ込み、真空管の青白い光が揺れる。
そこに立っていたのは、九条綾乃だった。
伝統的な縮緬の和服に、光ファイバーを織り込んだサイバー・ショール。帝都でも指折りの名家、九条家の令嬢。その瞳は感情を押し殺した深い沼のように静まり返っている。
「蓮見様とお見受けします」
彼女の声は、硬い硝子板を指先で弾いたような響きを持っていた。
「母、数子の供養をお願いしたく参りました。……もっとも、それが供養と呼べるものならば、の話ですが」
差し出された銀色のケースの中で、九条数子の脳内ログが鈍い光を放っていた。僕はそれを手に取り、指先でその冷たさを確かめる。
やれやれ。どうやら今夜のコーヒーも、ゆっくり味わって飲むわけにはいかないらしい。
*
「お母様は、金庫の暗証番号を伝えないまま逝かれた、と」
僕はログケースを机に置き、綾乃に尋ねた。彼女はソファに深く腰掛け、膝の上に組んだ指先をじっと見つめている。
「ええ。九条家の者にしか開けられぬ特殊な金庫でございます。母が何か大切なものを隠匿していたのではないかと、親族は騒然としております」
平坦な声だが、瞳の奥にわずかな焦燥と、何かを隠し通そうとする強固な意志が見えた。彼女の背筋は美しく伸びているのに、肩甲骨のあたりだけがわずかに硬い。人間が嘘をつく時の身体だ。
僕は古いジャズのレコードに針を落とした。ジョンコルトレーンだ。湿ったサックスの音が、真空管のハミングと混ざり合う。口寄せの儀式には、こうした「間」が必要だ。人間の感情はいつでも電子信号より複雑なノイズを纏っている。
写し鏡装置に銀盤を嵌め込み、義体の意識中枢へケーブルを繋ぐ。死という不可逆を、一時的に電子の幻影として呼び戻す行為。義体の無機質な肌に微細なホログラムの輝きが走り、薄い絹の衣を纏うように九条数子の面影が形作られていく。厳格な母の顔のまま、どこか深い疲弊が刻まれていた。
「接続完了。稼働時間、残り十四分五十九秒」
小春が事務的に告げた。
義体の口唇がかすかに震え、声が放たれる。
「あの方の信号(シグナル)を……止めて……」
金庫の暗証番号とはまるで関係のない、うわ言のような懇願だった。ホログラムの瞳から一筋の光の筋が流れ落ちる。電子の涙。
綾乃の表情が驚きと困惑に変わり、僕の予想通り、その中に微かな――しかし確かな「恐怖」が混じった。
やはり。金庫は隠れ蓑に過ぎない。九条数子は、もっと個人的な秘密を抱えたまま、この世を去ったのだ。
「あの方の信号を……止めて……」
繰り返される言葉は綾乃を狼狽させていた。膝の上で組んでいた指が、白くなるほど握りしめられている。指輪が食い込み、皮膚がわずかに赤く染まった。
「お母様は、何を……?」
数子は答えない。ただ遠い目をして、空中の一点を見つめ続けている。追い求めるように、あるいは逃れようとするように。
「小春」
僕は解析を指示した。モニターに、数子のログを侵食するような不規則な波形が表示される。
「やはり、データにノイズが混入しています。外部からの通信跡――三十年ほど前から、毎日、決まった時刻に受信。非常に微弱ですが規則的です」
三十年間。毎日。
僕は冷えたコーヒーを飲み干す。その苦みが事件の輪郭を教えてくれる気がした。
「送信元を辿って」
小春の指先がキーボードの上を走り、乾いたタイプ音が事務所に響く。やがてモニターに座標が表示された。帝都の場末、かつて電信中継所があったとされる、今は廃墟の地区。
「この信号のパターン、どこかで見たような……」
小春が首を傾げる。彼女のデータベースは帝都の通信規格を網羅しているはずなのに。
数子の像は「あの方の信号を」と吐き出し続ける。その声には懇願というより執着が混じっていた。
「自動送信プログラムです。旧式の。相手からの返信が途絶えても、設定時刻に決められたメッセージを送り続けるタイプ」
「文面は?」
小春が読み上げた。
「『今夜も、あなたの無事を祈る』。……そして末尾に、古い局番。送信者は、当時の電信局の技師用回線です」
小春がさらに深層ログを引きずり上げると、言葉にならない断片がいくつもこぼれ落ちた。
煤けた電信局の壁。真鍮のモールス信号機。指先に残る油の匂い。夜更けの窓から見える、九条家の屋敷の黒い瓦。そして、見知らぬ男の横顔――若い。笑ってはいないのに、どこか嬉しそうな横顔だ。
数子の人生の表面には現れない、裏側の生活音がそこにはあった。
綾乃の喉が鳴った。飲み込んだのは唾ではなく、何か別のものだろう。
「……電信技師、でしたね」
僕の言葉に、彼女はわずかに肩を強張らせた。否定しないことが肯定になる。
九条家の記録から抹消された男がいる。身分にそぐわぬ交際として追放され、名前ごと消された若い電信技師。数子にとって、それは鉄の枷の外側へ通じる、たった一本の銀の糸だったのかもしれない。
恋文と呼ぶには回りくどく、あまりに技術的で、あまりに慎ましかった。けれど、その慎ましさこそ、彼女が生き延びるために必要だったのだろう。愛は、九条家の中では『証拠』になる。証拠は、死ぬ。
「金庫を開ければ、証拠は出ます」僕は言った。「暗証番号は解決できる。家裁の書類みたいに、理屈で片がつく」
綾乃は黙っている。名家の令嬢の仮面の奥で、ひとりの娘が怯えている。
「でもその瞬間、九条数子という『完璧な生涯』は泥に沈む。お母様が最後に守りたかったのは番号じゃなく、その銀の糸のほうかもしれない。……死の間際に『信号を止めて』と言ったのは、死んだ後に誰かがその糸を見つけるのが怖かったからじゃないのか」
「母は……九条家という歯車として、完璧に生きて参りました。一度も、自分を優先したことなど……」
「だからこそ、その小さな秘密だけが、彼女を人間として繋ぎ止めていたんだ。鉄の枷に繋がれながら、心は銀の糸を伝い、あの廃墟の電信局へ通っていた。……やれやれ、ひどく回りくどい純愛だ」
接続終了まで残り三分。真空管の光が激しく明滅し、ホログラムが砂嵐のように乱れ始める。
数子は一瞬だけ綾乃の方を向いた――気がした。その表情は奥方のものではなく、ただの、疲れ果てた一人の女の顔だった。娘に何か言おうとして、言えないまま時間が尽きる顔。
「……蓮見様。その信号を、殺してください」
綾乃が絞り出すように言った。
「金庫は私が物理的に破壊して、中身ごと処分します。母は最後まで九条家の誇り高い主母として逝ったのだと、親族には納得させましょう。……母の秘密は、誰にも渡しません」
彼女の声は冷たいのに、指先だけが震えていた。鉄の枷は母だけでなく、娘にも引き継がれている。
僕は頷き、小春に合図を送った。
小春がレバーを反対側に倒す。高周波の耳鳴りが事務所を満たし、次の瞬間、数子のログに混じっていた異質な波形が一本の直線となって消えた。
数子がふっと力を抜け、項垂れる。
ホログラムが消える直前、彼女は微笑んだ。三十年間待ち続けた「解放」を、ようやく手に入れた者の顔だった。
解放。そう呼ぶのが正しいのか、僕には分からない。
僕がやったのは『信号を止める』ことだ。けれど言い方を変えれば、三十年続いた祈りを、僕の手で途切れさせたということでもある。
止めた瞬間、部屋は静かになった。だが静かになった場所には、必ず空洞が残る。空洞は、いずれ誰かの胸の中で別の音を鳴らす。
「稼働終了」
小春の事務的な声と共に、静寂が戻った。レコードは終端で乾いたクリック音だけを繰り返している。
綾乃は深く頭を下げ、出ていった。冷たい風が入り込み、真空管の熱をさらっていく。
残ったのは香水の残り香と、救われきらない静寂。
僕はコーヒーミルを回した。真鍮の歯車が噛み合う音だけが、僕にとっての確かな手触りだった。
ただ、その夜からしばらく、僕の耳の奥には「今夜も、あなたの無事を祈る」という古い信号が、幽霊のように残った。
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