第一章③ 坐禅は無階級である
第三節 坐禅は無階級である
「どうやったら修行の上下の階級に落ちない事ができますか。」
「お前は今までどんな修行をして来たのだ。」
「悟りや真実といったものも、強いて
識で汚したりしていません。」
「悟りすら強いて
この「
普通は、「修行して人より偉くなりたい、自分だけ悟りを開きたい、有名になりたい。あいつにだけは負けたくない。」と思って、つらい修行も耐えるのですが、そんな事はまったく問題にしていません。「俺とあいつは紙一重だ。」と差をつけるのが人間は大好きなのです。スポーツやゲーム、選挙、入試、学問にいたるまで、勝負事には目の色を変えてやるのです。
そのような世間的な事と違って「
悟りというと、悟りと迷い、修行ができた人と、できていない人の二つに分かれてしまって階級、差別ができてしまいます。
私達は、元々、宇宙と続きの自己、ありのままの自己、真実の自己だから、今の自分以外の特別な悟りの状態の自己になる必要はないのです。
元々、宇宙と続きの自己が宇宙と続きの自己に深まって行くだけなので、坐禅したからといって、新しく悟りを開くわけでもなく、何か反応があるわけでもありません。これが無階級の坐禅なのです。
大宇宙からみれば、また坐禅の無限の
「金剛経」には、
「この法は平等にして
とあり、
「
を論ぜず」
【現代語訳】
もしよくこのよう⦅仏道を体現する坐禅を中心とした修行生活⦆であれば、階級
や勝劣は問題ではない。
とあります。坐禅は無階級であると信じて行じたいものです。
沢木老師は、
「むしろ、初めて坐禅する人の方が一所懸命、新鮮な気持ちでやっている。わしのような長年やっている者は、うっかりすると惰性でやっているだけになってしまう」と言われています。
「一寸の
【現代語訳】
すこしでも坐禅すれば、すこしだけ仏様の坐禅になっている
と言われています。
「なにかこれ初心、いずれか初心にあらざる」
とあって、「坐禅は初心とか、熟練とかに分けられるものではない」と言っておられます。また「いつも初めての坐禅である」とも言っておられます。
「
とあります。これは、「どうしようもない、この自分が坐禅したとたん、すべてを飛び越えて仏様の世界に入ってしまう」という意味です。
「たとひ
【現代語訳】
たとえ、ごく短い瞬間に発心して修行、実証するのも、大自然に生かされて
いる真実の自己の実現である。
※即心是仏=
師の言われる、仏 ⦅宇宙と続きの自己⦆が
とあります。
そうすると、
「一回、坐禅して仏になったら、あとは怠けていてもいいんだな。」とか、
「一瞬だけ修行して仏になっても、すぐ元の凡夫に戻ってしまうんだから、つまらないじゃないか。」と思う人があるかもしれませんが、そうではなく、
「いはくの成仏はかならず相継(そうけい)するなり。相継する少許(しょうこ)
を成仏するなり。」
【現代語訳】
ここ⦅
は、必ず相継する⦅
れている⦆。その相継する中の少しだけを⦅その時その時に修行して⦆成仏⦅真の
自己を現成⦆するのである。
とあって、日々、修行を継続して行かねばなりません。この坐禅は誰でも出来る事なのですが、何の変哲もない無階級の坐禅なので、中々、してみようとは思いません。ましてや継続して行くのは至難の技なのです。
「坐禅は
とあって、坐禅は練習して、だんだん上手になっていくというものではありません。ただ、足が痛いのはだんだん慣れてきます。(一回の坐禅の時間は、永平寺では40分、私が修行した安泰寺では50分です。)
こばやし
佛
自分さえ
よければよいという
心が死ぬから
死んだら
佛になるのです
生きている間でも
この心を
離れただけ
佛です
このことを
「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」
【現代語訳】
自分さえよかったらいいという心を忘れるということは、⦅不思議にも、⦆それが
そのまま天地一杯の真実の方から証明され、宇宙と続きの自己が現成《げんじょ
う》する⦅仏に成る⦆ことなのである。)
と、あります。
坐禅したからといって、自分さえよければよいという気持ちがなくなるわけではありませんが、坐禅していると自然に心が静かになり、普段の生活の時より、自分さえよければよいという気持ちから、少しだけ?、あるいは多いに?、離れる事ができます。
この事を
「
【現代語訳】
煩悩や迷い、邪見が完全になくならなくても、修行すれば清浄の功徳が即座に現
れる。
※
《じん》は怒り、
※
と言っています。
気に入らない奴と喧嘩している時や、自分だけ金や名誉を手にいれようとアクセクやっている時とは、まったく違った世界です。自分さえよければよいという心からどれだけ離れたかは、自分ではわからないし、優劣を競う必要もありません。坐禅の世界は普段の生活とは次元の違うものです。
道元禅師の著「
春に逢ふ人も春なり蓮華草 山寺の和尚
(春の時は、すべてのものが、そして自分も春であるように、坐禅すれば、坐禅の世界が開けるという意味です)。
「
(余談ですが、子供が小学生の時、「お父さんは坐禅している時が一番いい。」と言いました。子供でも坐禅の良さがわかるのかな?と思いましたが、実はそうではなく、普段はだらしがなくて、やたら子供にちょっかいを出してきて、「俺の話を聞け。」と言っては、わけのわからない自説をしゃべりたがる、うるさいオヤジだが、坐禅中だけは静かでいい、という意味でした。)
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