第5話
幕間:昏き密約と、狂気の萌芽
王立リリウム学園の片隅、普段は人影のない旧校舎の裏手に、湿った沈黙が降りていた。
夕闇が建物の影を長く引き伸ばし、まるで世界が夜の底へと沈んでいくような錯覚を覚える時刻。
そこに、一人の少女が立っていた。
グレイス・バイオレット。侯爵家の令嬢であり、学園でも指折りの槍術使いとして名を馳せていたはずの彼女は今、屈辱に唇を噛み締め、小刻みに肩を震わせている。
彼女の目の前には、深い漆黒のローブを目深に被った人物が佇んでいた。
その姿は闇に溶け込み、表情を窺い知ることはできない。ただ、ローブの隙間から漏れ出す気配だけが、尋常ならざる者のそれであることを物語っていた。
「……報告は受けているよ、グレイス・バイオレット嬢。期待外れも甚だしい」
低く、しわがれた声。それはまるで古い墓所から響いてくるような、現実味のない不気味な響きを帯びていた。
「アリア・フォン・ルミナスから、あの不遜なエルフを引き剥がせと命じたはずだ。それがどうだ。食堂では無様に叩き伏せられ、昨日の演習では……あろうことか、木槍で己の武器を断たれるという醜態を晒した。バイオレット家の名は、いつからそれほどまでに地に落ちたのかな?」
「くっ……!」
グレイスの喉から、押し殺した呻きが漏れる。
昨日、シフォンに敗北した瞬間の光景が、脳裏にこびりついて離れない。
あの銀髪の少女が放った、一筋の閃光。物理法則を無視したかのような、木槍による両断。そして何より、自分を塵芥ちりあくたのように見なしたあの冷徹な瑠璃色の瞳。
「あ、あれは……あれは、ただの娘ではありません! あの者は、何らかの邪法を……!」
「言い訳を聞くために、わざわざ君を勧誘したわけではないのだよ」
ローブの人物の声に、冷ややかな嘲笑が混じる。
「君の役割は、アリア様の隣を独占し、彼女を我々の望む方向へ導くための『枷』となることだった。だが、今の君はただの敗北者だ。アリア様はあのアリ同然の少女に心を開き、君のことなど一顧だにするまい」
その言葉は、グレイスが最も恐れていた真実を正確に射抜いた。
アリアを慕う心。それは純粋な敬愛を超え、いつしか狂気的なまでの執着へと変質していた。自分こそがアリアに最も近い存在であるべきだという傲慢なプライド。それが、シフォンというたった一人の少女によって、完膚なきまでに粉砕されたのだ。
「……次は。次は、必ずやりますわ」
「ほう?」
「次は、あんな小娘……。必ず、この手で仕留めてご覧に入れます!」
グレイスは顔を上げ、血走った瞳で叫んだ。
もはや侯爵家の令嬢としての理知も、武人としての誇りもそこにはない。ただ、自分から「居場所」を奪った者への、昏い怨嗟だけが彼女を突き動かしていた。
ローブの人物は、わずかに口元を歪めた。その動きに合わせ、闇の中から細長い、青白い手が伸びる。
その掌に乗せられていたのは、禍々しい紫色の光を放つ、小さな歪な宝玉であった。
「ならば、これを使うがいい。……『狂乱の魔石バーサーク・コア』。君の内に眠る魔力と生命力を強制的に引き出し、一時的に人の理を超える力を与えるものだ」
グレイスはその宝玉を、吸い寄せられるように手に取った。
掌から伝わる、脈打つような不快な振動。しかし、今の彼女にはそれが、シフォンへの復讐を果たすための「祝福」のように感じられた。
「……必ず。必ず、シフォンを仕留めますわ。アリア様の隣にふさわしいのは、私だけなのですから……」
狂気じみた笑みを浮かべ、グレイスは宝玉を握りしめたまま、闇の中へと消えていった。
グレイスが立ち去り、再び静寂が戻った旧校舎の裏。
ローブの人物は微動だにせず、虚空を見つめていた。
「……閣下。ご報告を」
虚空から、念話の魔法が響く。それは、アリアを暗殺するために差し向けた精鋭たちからのもの……であるはずだった。
「アリア・フォン・ルミナスの排除に従事していた部隊が……全滅しました。生存者はゼロ。死体には、全て一撃による深い穿孔、あるいは断裂の跡が。……犯人は、あのエルフの少女と思われます」
「…………ほう」
ローブの人物の口から、感嘆とも取れる溜息が漏れた。
暗殺部隊は、各国の戦場を渡り歩いてきたプロの集団だ。それをたった一人で、それも痕跡を残さず瞬時に処理したというのか。
「『銀髪の死神』……か。伝説は、真実だったというわけだ」
男は、先ほど立ち去ったグレイスの、あの哀れなまでに歪んだ笑顔を思い出す。
彼女に与えた魔石は、確かに強大な力を与えるが、その代償として正気を食い潰す。
死神の鎌の前に、狂気に囚われた少女を放り込む。それがどれほど無意味な抵抗であるか、この男が知らぬはずもなかった。
「せいぜい、華やかに散ってくれるといい。君の狂気が、死神の正体を暴くための良い観測材スケープゴートになるのだから……」
薄暗い路地の奥で、ローブの男は独り、獲物を見つけた蛇のような、意味深な含み笑いをいつまでも響かせていた。
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