第8話 十年後・藍の前

夕方の散歩は、たいてい同じ道。


今日は、少しだけ遠回りした。


理由は、ない。


川沿いを抜けて、古い家並みの角を曲がったとき、


中から「お先に失礼します」と、聞こえた。


続けて、少し奥まったところから、


「ご苦労さん」


低くて、年季のある声。


美咲は、一歩、減速する。


藍染工房。


暖簾が、半分だけ揺れている。


——あ。


出てきた人を見て、美咲は一瞬、息を止めた。


背格好。歩幅。


首の傾き。


見覚えが、ありすぎる。


でも。


視線が、手に落ちる。


藍色。


濃い。


指先から、爪まで。


——いや、違う。


あの子は。


小学校でも、中学でも。手を、隠してた。


ポケット。

袖。

机の下。


(あんな色、無理でしょ)


でも。


工房の前。

退勤。

藍の手。


(状況証拠、強すぎない?)


美咲は、立ち止まったまま、数秒、固まる。


相手が、気づく。


視線が合う。


その瞬間。


「あ——」


声が、勝手に出た。


「あの、えっと……」


一歩、前に出る。


「メ——」


そこで、世界がふわっと白くなる。


「ちょっ——!」


腕を掴まれる。


身体が、傾く。


支えられる。


「大丈夫!?」


近い声。


近い匂い。


藍と、石鹸。


美咲は、数回、瞬きをして、


「……あ」


地面が、戻る。


「す、すみません……」


息を整えながら、顔を上げる。


目の前。


やっぱり、メグだ。


「あ……やっぱり……」


声が、震える。


「メグ、だよね」


確認。


念押し。


逃げ道を塞ぐ言い方。


メグは、一瞬だけ、目を見開いて、


それから、困ったように笑う。


「……うん」


短く。


「美咲」


名前が、ちゃんと出た。


美咲の膝が、今度は本当に笑いで抜ける。


「ちょっと待って、待って待って」


手で、空気を切る。


「情報量、多い」


メグの手を見る。


「なにその手」


言い切り。


でも、責める調子じゃない。


ただ、信じられない。


メグは、手のひらを返す。


「……仕事」


それだけ。


美咲は、息を吐く。


「いや、もう……」


額を押さえる。


「中学のときの私に言っても、絶対信じないやつ」


メグは、小さく肩をすくめる。


「私も」


美咲が、顔を上げる。


「え?」


「小学生の私に言っても、信じない」


二人の間に、沈黙。


でも、重くない。


美咲が、先に笑う。


「ねえ」


一歩、近づく。


「少し、座らない?」


隣の公園を、顎で示す。


「……立ってると、また倒れそうだから」


メグは、一瞬考えて、


「……いいよ」


並んで、歩き出す。


藍色の手は、もう、隠れていない。


美咲は、何度もそれを見る。


そして、見るたびに思う。


(ああ)


(時間って、ちゃんと進むんだ)

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