第7話 神々の争い
月光が冴え渡る境内に、乾いた金属音が響き渡った。
「――遅い」
香取凛花の声は、振るわれた刃(やいば)よりも冷たく、そして速かった。
視界がブレる。
俺は、反射的に体を後ろへ逸らした。鼻先数センチの空間を、白銀の閃光が切り裂いていく。
薙ぎ払われた風圧だけで肌が切れそうだ。
「ほう、避けたか。腐っても物部の血か」
凛花は優雅に着地し、音もなく間合いを詰め直す。
彼女が手にしているのは、身の丈ほどもある日本刀。常人が持てば重さで振り回されるだけの鉄塊だが、彼女の手にあるそれは、まるで羽毛のように軽やかに、そして雷のように鋭く扱われている。
「おいおい、冗談だろ……! いきなり斬りかかってきやがって!」
「冗談? ……ああ、なんと嘆かわしい」
追撃が来るかと思い身構えた俺に対し、凛花は意外な反応を見せた。
切っ先をだらりと下げ、深く歪んだ憐憫の眼差しを俺に向けてきたのだ。
それは憎悪ではない。まるで、不治の病に侵され、死を待つだけの小動物を見るような目だった。
「気づいておられないのですか? その女は、貴方様を愛してなどいません。貴方様はただの『贄(にえ)』。その身体から精(せい)を最後の一滴まで絞り取り、自らの神気を維持するための、使い捨ての道具に過ぎないのです!」
彼女の声が悲痛に響く。
彼女にとって、俺の纏う気配は「穢れ」そのものだった。だがそれは俺自身の罪ではなく、俺に寄生する女神が吐き出す毒によるものだと、彼女は信じているのだ。
「貴方様はたぶらかされているのです。神威に当てられ、正常な判断力を失っている。今すぐその毒婦を祓わねば、貴方様の魂まで食い尽くされてしまう……! 安心なさいませ、私がその苦しみから解放して差し上げます!」
「寝言を言うな、小娘!」
俺の背後で、スヒジニが怒声を上げる。
彼女の全身から黄金色の神気が立ち昇り、威嚇するように展開されるが、凛花は眉一つ動かさない。
「古き神よ。その贄から離れろ。そうすれば、苦しまずに土へ還してやる」
「寝言を言うな。この子は我のものじゃ。指一本触れさせぬ!」
「交渉決裂か。……ならば、諸共に断つ」
凛花の足元の砂利が、粉々に弾け飛んだ。
縮地。
認識の外側から迫る一足飛びの踏み込み。
俺の動体視力では、彼女が「消えた」ようにしか見えなかった。
「しまっ――」
反応が遅れた。
俺の首が胴体から離れる――その未来を幻視した瞬間。
ガギィィィンッ!!
鈍い衝撃音と共に、火花が散った。
俺の首を狙った刃が、寸前で止まっている。
止めたのは、俺の左腕だ。とっさにスヒジニが泥を硬化させ、ガントレットのように俺の腕を覆ったのだ。
「……ッ、硬いな」
凛花がわずかに目を見開く。
だが、攻撃は終わらない。刀が弾かれた反動を利用し、彼女は流れるように回転、遠心力を乗せた二撃目を放ってきた。
「ぐぅっ……!?」
重い。
その辺の荒神のパワーとは質が違う。「技術」によって極限まで研ぎ澄まされた切れ味は、泥の装甲ごと俺の骨を軋ませる。
「防戦一方じゃな、ダイト! もっと腰を落とさんか!」
「無茶言うな! 見えねえんだよ、速すぎて!」
「ええい、じれったい! 見えぬなら、見えるようにしてやる!」
スヒジニが叫ぶと同時、俺の視界が黄金色に染まった。
彼女の知覚が俺の脳に共有される。
スローモーションの世界。風の動き、筋肉の収縮、重心の移動――すべてが手に取るように分かる。
(右じゃ! 払い除けろ!)
脳内の指示に従い、俺は右拳を突き出す。
泥の拳が凛花の刀の腹を捉え、軌道を逸らす。
「……!」
凛花の体勢が崩れた。
好機。俺は踏み込み、カウンターの拳を放つ。
しかし。
「――甘い」
凛花は崩れた体勢のまま、まるで軟体動物のように上体を反らし、俺の拳を紙一重で回避した。
そして、すれ違いざまに刀の柄頭(つかがしら)を俺の鳩尾(みぞおち)に叩き込む。
「がはっ……!?」
肺の中の空気が強制的に排出された。
視界が明滅する。強烈な吐き気。泥の鎧で防いでこれだ。生身なら内臓破裂で死んでいた。
「所詮は素人の喧嘩。神の力を多少利用したところで、武の理(ことわり)には届かない」
凛花が冷ややかに見下ろす。
彼女の呼吸は乱れてすらいない。
勝てない。
武人としてのスペックが違いすぎる。俺はただの大学生で、彼女は「神を降ろす」ために鍛え上げられた本職の巫女だ。
俺は膝をつき、激痛に耐えながらスヒジニを見上げた。
彼女もまた、歯噛みしていた。
神としての力はあっても、今の彼女は実体を持ったばかりで出力が低い。俺という「器」を通さなければ、まともに干渉できないのだ。
「……おのれ。我が愛しき子を、よくも」
スヒジニの瞳が、怒りで赤熱するように輝きだした。
彼女は俺の背中に手を置き、熱い吐息と共に囁く。
「ダイトよ。覚悟を決めよ」
「……なにを、する気だ?」
「憑依するぞ。これまでは手先だけの接触じゃったが……今はそんな手加減をしておれる状況ではない」
彼女の姿が、ドロリと輪郭を失っていく。
黒い泥となり、俺の背中から侵入してくる気配。
「全部入れるぞ。……我を受け入れよ」
ズプッ。
濡れた音がして、背骨に熱い鉛を流し込まれたような衝撃が走った。
「ぐ、あああああああッ!!?」
俺は絶叫した。
痛いのではない。熱い。そして濃い。
スヒジニという神の魂、記憶、感情、そして泥土の質量そのものが、俺の肉体という狭い器の中に無理やり押し込まれてくる。
血管が拡張し、筋肉が悲鳴を上げ、細胞の一つ一つが「泥」に置換されていく感覚。
だが、その不快感は一瞬で、甘美な全能感へと変わった。
ドクン。ドクン。
心臓の音が重なる。
俺の中に、もう一つの意思がある。
(んっ……相変わらず狭くて固いのう。だが、悪くない。おぬしの中は温かい……)
脳髄を直接愛撫されるようなスヒジニの声。
俺の体から、爆発的な神気が噴き上がった。
足元の石畳がひび割れ、周囲の空気が重く澱(よど)む。
「……なっ!?」
初めて、凛花の表情が崩れた。
彼女は目を見開き、信じられないものを見るように俺を凝視した。
「憑依……だと?」
彼女の声が震えている。
それは、強大な敵に対する恐怖ではない。
自身の常識、神道の理(ことわり)が根底から覆されたことへの驚愕だ。
「馬鹿な……あり得ない! 『神降ろし』ができるのは、清浄なる乙女(みこ)の肉体のみ! 男の、しかも穢れた器に神が宿るなど……そんな理屈は存在しないッ!」
彼女の動揺はもっともだった。
古来より、神を受け入れる依り代は女性の役割と決まっている。巫女とはそのための存在だ。
男性が神を降ろすなど、現代の神道においては禁忌以前の「不可能事」だ。
「ふん、人間ごときの常識で我を測るな」
俺の口が、勝手に動いて言葉を紡ぐ。声色は俺のものだが、そのイントネーションは完全にスヒジニのものだ。
「我は原初の泥ぞ? 男も女も、すべては泥より生まれしもの。性別などという些末な区分けは、我の前では無意味じゃ!」
俺の――いや、俺たちの体が変貌する。
右半身を中心に、黒い泥が鎧のように隆起し、肩から指先までが巨大な異形の腕へと変わっていく。
顔の半分にも泥の紋様が浮かび上がり、右目は黄金色に輝いているはずだ。
「ひ……っ!」
凛花がたじろいだ。
その一瞬の隙。
百戦錬磨の彼女が初めて見せた、致命的な「思考の停止」。
神職であるがゆえに、「あり得ない神事」を目の当たりにして思考がフリーズしたのだ。
(今じゃ、ダイト! 行けッ!!)
(おうッ!!)
俺は地面を蹴った。
泥の力で強化された脚力は、爆発的な加速を生む。
一足飛び。
凛花との距離がゼロになる。
「しまっ――!?」
凛花がハッと我に返り、刀を構え直そうとする。
だが、遅い。
俺たちは既に懐(ふところ)に入り込んでいた。
刀など使わない。
武術など知らない。
あるのは、泥臭い暴力と、神の質量だけ。
「ぶん殴るッ!!」
俺とスヒジニの声が重なった。
巨大化した泥の右拳を、思い切り振りかぶる。
凛花はとっさに刀の腹でガードするが――
ドゴォォォォォンッ!!
関係ねえ。
重さが違う。
数千年の時を経た神の重量が乗った一撃は、鋼鉄の刀身ごと彼女の体を吹き飛ばした。
「が、あぁっ……!?」
凛花の体がボールのように弾き飛ばされ、境内の石灯籠をへし折り、背後の杉の木に激突して止まった。
刀が手から離れ、カランカランと虚しい音を立てて転がる。
土煙が晴れると、そこには力なく座り込む凛花の姿があった。
気絶はしていないようだが、ダメージは深い。何より、自分の信じる「理」を破壊されたショックで、瞳の焦点が合っていない。
「……あり得、ない……。男が……神を……」
彼女はうわごとのように呟き、ガクリと項垂れた。
「……勝った、のか?」
大杜は荒い息を吐きながら、自分の右拳を見つめた。
泥の鎧がボロボロと崩れ落ち、元の人の腕に戻っていく。
同時に、体内から熱が引いていく。
ズルリ、と背中から何かが抜け出す感覚。
「ふぅ……。久々に本気を出したわ」
スヒジニが背後で実体化した。
彼女もまた、肩で息をしており、その白い肌はほんのり桜色に染まっている。
憑依の負担は、彼女にとっても大きかったようだ。
彼女はふらつく足取りで俺に近づくと、全体重を預けるように抱きついてきた。
「どうじゃった、ダイト。わらわとの『一体化』は?」
「……最悪で、最高だったよ。体が焼き切れるかと思った」
「ふふ、正直な奴じゃ。だが、おぬしの中は居心地がよかったぞ。またいつでも入れておくれ」
彼女は艶っぽく微笑み、俺の頬にキスをした。
俺は照れ隠しに顔を背け、座り込んでいる凛花のもとへと歩み寄った。
凛花は肩で息をしながら、こちらを睨みつけている。
だが、その瞳には先ほどまでの冷徹な殺意はない。あるのは混乱と、そして少しの恐怖だ。
「……殺せ」
彼女は掠れた声で言った。
「穢れに敗北した巫女になど、生きる価値はない。香取の面汚しだ」
「物騒なこと言うなよ。俺たちは人殺しなんてしない」
俺はため息をつき、手を差し伸べた。
「あんたが勝手に襲ってきて、勝手に負けただけだろ。……ほら、立てよ」
「な……敵に情けをかけるというのか? 愚弄する気か!」
「愚弄じゃなくて、和解だよ。ご近所さんだろ? 同じ神様関係者なんだから、仲良くやろうぜ」
凛花は差し出された俺の手を、信じられないものを見るように見つめた。
そして、次にスヒジニの方を見る。
スヒジニは腕組みをして、ふん、と鼻を鳴らした。
「ダイトがそう言うなら、見逃してやらんこともない。感謝するがよい、小娘」
「……くっ」
凛花は俺の手を払い除け、自力で立ち上がった。
足元はふらついているが、その背筋はピンと伸びている。
「勘違いするな。私は……敗北を認めたわけではない」
彼女は落ちていた刀を拾い、鞘に納めた。
「男が依り代となるなど、断じて認められん。その術理、その穢れの正体……必ずや見極め、次こそは祓って見せる」
「はいはい、またどうぞ。次は菓子折りでも持ってきてくれよ」
凛花は悔しげに唇を噛み、一度だけ俺たちを振り返ると、夜の闇へと消えていった。
去り際、その耳が赤くなっていたのを、俺は見逃さなかった。
「……やれやれ。厄介な知り合いが増えたな」
「よいではないか。退屈しのぎにはなる」
スヒジニは俺の腕に絡みつき、うっとりと目を細めた。
「それよりダイト。憑依の余韻で、体が熱いのじゃ」
「……だから?」
「まだ足りぬ。もっと深く、今度は静かな場所で、続きをせぬか?」
「しないってば!! 帰るぞ!」
俺たちの夜は、まだ騒がしくなりそうだった。
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