第6話 刀の巫女

 鼻が曲がりそうな腐臭と、肌にまとわりつく湿気。

 かつて産業廃棄物の不法投棄場所だったというこの谷底は、長年の雨と汚染水が混じり合い、足首まで浸かるほどの泥沼と化していた。


「……臭いのう。あまりに臭いぞ、ダイト。このような場所に長居するのは体によくなさそうじゃの」


 脳内に直接響く声は、この悪臭漂う現場に似つかわしくないほど、ねっとりと甘く、慈愛に満ちていた。

 俺、物部大杜は、自分の胸元――憑依しているスヒジニ様に向かって答える。


「心配してくれんのはありがたいけど、ここに来ようって言ったのあんただろ! 『不味いが腹の足しになりそうな気配がする』って!」

「言うたが、まさかこれほど下品な場所だとは聞いておらぬ。……おお、よしよし、可哀想なダイト。こんな汚い泥にまみれて……あとで母が綺麗に洗ってやろうな」

「自分で洗うから!!」


 まるで幼児をあやすような、それでいてどこか艶めかしい口調。

 だが、目の前に立ちはだかる現実は、そんな甘い会話を許してはくれなかった。

 俺たちの前には、廃棄された家電やタイヤが融合した巨体――名前を付けるなら、荒神『廃棄・タイヤ入道』といったところか、が、その赤黒い複眼を明滅させて立ちふさがっていた。


 グオオオオオオオオッ……!!


 荒神が咆哮と共に、タイヤをねじり合わせた剛腕を振り上げる。

 質量数トンの暴力。直撃すれば即死だ。


「来るぞスヒジニ! 硬化だ!」

「はいはい、分かっておるよ。……さあ、力んで我を受け入れなさい」


 大杜が叫ぶと同時、彼の胸の奥から熱い奔流が溢れ出した。

 それは単なるエネルギーの供給ではない。

 スヒジニという存在そのものが、俺の筋肉、血管、骨の隙間にぬるりと入り込み、内側から抱きしめてくるような感覚。


(んっ……! 何度やっても慣れねえ……!!)

(何を照れることがある? 親子のスキンシップじゃろう? ……それとも、これだけで感じてしまったか? 可愛い奴め)


 脳内でクスクスという笑い声が響くのと同時に、俺の皮膚の下から黒い泥が溢れ出し、両腕を強固なガントレットへと変えた。


 ドゴォッ!!


 荒神の一撃をダイトは左腕一本で受け止めた。

 足元の地面が陥没し、衝撃が全身を走る。だが、不思議と痛みはない。泥がクッションとなり、衝撃をすべて吸収してくれたのだ。


「うおおおっ、重ぇ!」

「なんの、男の子じゃろう? 踏ん張りなさい。おぬしなら出来る。ほれ、ここにもっと力を入れて……そう、えらいぞ!」


 スヒジニの甘い叱咤激励と共に、大杜の体幹が強制的に補正される。

 泥が筋肉の繊維一本一本を愛撫するようにサポートし、潜在能力を引き出していく。

 背中をぴったりと抱かれているような安心感と、うなじに吐息がかかるような背徳感。

 俺の理性は、荒神よりもこの女神によって削られていく。


「返すぞ、ダイト!」

「おうよッ!」


 大杜は弾くようにして荒神の腕を跳ね上げると、無防備になった胴体――古タイヤの隙間から覗く、赤黒い核めがけて右拳を突き出した。


「砕けろぉぉぉッ!!」


 ズドォォォォン!!


 インパクトの瞬間、タイヤのゴムが溶けるような異臭と共に、荒神の体が弾け飛んだ。

 核を粉砕された怪物は、断末魔を上げることもなく崩れ落ち、ただのゴミの山へと還っていく。


「はぁ……はぁ……」


 残心もそこそこに、大杜はその場に膝をついた。

 腕を覆っていた泥がスルスルと引いていき、大杜の胸元から液状化したスヒジニが飛び出して実体化する。


「うんうん、よくやった。大したもんじゃ」


 着地した女神は、薄絹の裾を払いながら、泥だらけの俺に抱きついてきた。

 腐臭漂うゴミ山の中で、彼女からだけは甘い花の香りがする。


「今回も上出来じゃよ。……ああ、汗びっしょりじゃな。精悍な雄の匂いがするぞ」

「……近いって。離れろ」

「照れ屋じゃのう。褒めておるのに」


 スヒジニは俺の首筋に顔を埋め、くんくんと鼻を鳴らすと、ふと瓦礫の山に目を留めた。

 彼女は何かを見つけ、それを拾い上げる。


「見てみよダイト。汚れた腹の中に、こんな『綺麗な石』が混じっておったぞ」


 彼女が指先で愛おしそうに撫でると、泥汚れが落ち、中から鈍い銀色の光を放つ金属塊が現れた。


「泥を落としたら、星のようにキラキラしおった。硬くて、重くて、少し冷たい……ふむ、これは良い『土』じゃな」

「……これ、まさかプラチナか? いや、パラジウムの触媒か? どっちにしろレアメタルだ!」


 大杜は目を見開いた。

 スヒジニにとってはただの「綺麗な石」でも、現代社会では高値で取引される希少金属だ。


「おぬし、これが欲しいのか?」

「欲しい! めちゃくちゃ欲しい!」

「そうかそうか。ならばやるぞ。おぬしが頑張ったご褒美じゃ。……その代わり」


 彼女は金属塊を俺の手に握らせると、ねっとりとした視線で見上げてきた。

 黄金の瞳が、妖しく揺らめく。


「あとで、たっぷりと『和合(わごう)』の儀につきあってもらうからな?」

「……聞こえないフリをしておく」


 



 その日の午後。

 俺たちは都内の貴金属買取店と、刀剣専門店をハシゴしていた。


 結果から言えば、大勝利だった。

 レアメタルの塊は予想以上の高値がついたし、何より先日スヒジニが再生してもらった太刀『友成』は、刀剣店の店主が腰を抜かすほどの鑑定額を叩き出した。


 一千五百万。

 通帳に記帳されたその数字を見て、俺の手は震えが止まらなかった。神社の借金返済、修繕費、そして当面の生活費。すべてが解決し、お釣りが来る。


「ダイトよ、この数字が増えることが、そんなに嬉しいのか?」


 銀行のロビーで、スヒジニが不思議そうに首を傾げる。

 彼女は現代的なワンピース(俺が奮発して買った)を着ているが、その中身は相変わらず無垢な女神のままだ。


「嬉しいなんてもんじゃない。これで生きられるんだ。屋根も直せるし、あんたに美味い飯も食わせてやれる」

「ふむ……よく分からぬが、おぬしが笑っておるならそれでよい。わらわも鼻が高いぞ」


 彼女は満足げに頷き、俺の腕に柔らかい胸を押し付けるようにして絡みついてきた。


「して、ダイト。腹が減ったのじゃが」

「わかった、じゃあ奮発して現代の今日は最高に美味いもんを食わせてやる!」


 俺たちが向かったのは、浅草にある老舗のすき焼き店だった。

 個室に通され、仲居さんが鍋の準備を始める。

 スヒジニは、初めて見るガスコンロや鉄鍋を、目を丸くして見つめていた。


「なんじゃこれは。……まさか、この漆黒の泥水で肉を煮るつもりか?」


 彼女が指差したのは、割り下が入った鍋だった。

 確かに、見た目は黒くて怪しい液体に見えなくもない。


「泥水じゃないって。これは『割り下』っていう、醤油と砂糖を混ぜた調味料だ」

「しょうゆ? さとう? ……聞いたことのない呪文じゃな」


 スヒジニは警戒心を露わにしている。

 だが、肉が焼ける香ばしい匂いが漂い始めた瞬間、彼女の鼻がヒクヒクと動いた。


「……む?」


 仲居さんが、煮えた肉を溶き卵にくぐらせ、スヒジニの小皿に入れた。

 彼女はおずおずと箸を持ち、それを口に運ぶ。


 ハムッ。


 咀嚼。

 その瞬間、スヒジニの黄金の瞳が、カッと見開かれた。


「…………っ!!」


 彼女は言葉を失い、震える手で頬を押さえた。


「な、なんじゃこれは……!」

「どうだ? 美味いだろ?」

「甘い……いや、辛い? なのにまろやかで……口の中で肉が解けて……」


 彼女は俺の方を向き、興奮気味に身を乗り出した。


「ダイト! これは『文明』じゃ! あの黒い水と、鶏の卵と、獣の肉が……混ざり合って、とんでもない調和を生んでおる!」

「大袈裟だなあ。でも気に入ったみたいでよかった」

「気に入ったなどという言葉では足らぬ! 人間は、これほど素晴らしい術を生み出しておったのか!」


 彼女は二枚目の肉を口に運び、うっとりと目を細めた。

 知識がない分、その反応は純粋で、爆発的だ。


「すごいぞ人間。すごいぞダイト。おぬしらは、こんな『幸せ』を作り出せるのじゃな……」

「まだ野菜もあるし、最後にはうどんを入れるんだ」

「う、うどん? それもまた文明の秘宝なのか?」

「まあ、小麦粉を練った麺だけどな」

「小麦……! 土から生える草の実を、粉にして、練って紐にするというのか!? なんたる叡智!」


 スヒジニは鍋の中を見つめ、涙ぐまんばかりに感動していた。

 お金の価値は分からない。レアメタルの名前も知らない。

 けれど、こうして「美味しい」と感じる心だけは、誰よりも豊かだった。


 やがて、冷酒が回り始めたのか、スヒジニの頬が朱に染まり、とろんとした目つきに変わっていく。

 彼女はテーブルの下で、素足の爪先を俺の太腿に這わせた。


「なあ、ダイトよ……」

「……なんだよ」

「美味しいもので腹は満ちた。……次は、別の場所を満たしてはくれぬか?」


 足の指が、際どい場所をくすぐるように動く。


「このすき焼きのように……おぬしと私も、ドロドロに溶け合うてみぬか?」

「だ、だから! 神様がそんなこと言うなって!」

「減るもんじゃなし。それに、おぬしも嫌いじゃなかろう? 母には分かるぞ。おぬしの体が熱くなっているのが……」


 妖艶な微笑み。

 俺は冷酒を一気に煽り、必死に理性を繋ぎ止めた。この女神、油断するとすぐに既成事実を作ろうとする。


 



 満腹になり、そして何とか貞操を守り抜いて、タクシーで山奥の神社へと帰り着いたのは、すっかり日が暮れてからのことだった。

 懐も暖かいし、腹も満ちた。

 スヒジニは上機嫌で俺の腕に抱きつき、全体重を預けてきている。


「あの『すきやき』という料理……恐ろしかった。まだ口の中に幸せが残っておる」

「また連れて行ってやるよ。もしくはほかの料理もいいかもな。寿司とか」

「楽しみじゃのう。お礼は体で払いたいところじゃが」

「それは遠慮しておく」


 そんな軽口を叩きながら、鳥居をくぐった瞬間だった。


 ゾクリ。


 肌を刺すような冷気が、酔いを一瞬で吹き飛ばした。

 夜風ではない。もっと鋭利で、研ぎ澄まされた刃物のような気配(プレッシャー)。


「……む」


 俺の腕に絡みついていたスヒジニが、ピタリと足を止める。

 柔らかい体温が、急速に硬質化していくのを感じた。


「……誰じゃ」


 彼女の声から、先ほどまでの甘えたような響きが消え失せていた。

 代わりに現れたのは、数万年を生きる神としての、冷徹で静かな威圧感。

 彼女は俺を背に庇うように前に出ると、崩れかけた本殿の方を向いた。


「我が庭に、断りもなく刃(やいば)を持ち込む不届き者は」


 その視線の先。

 月光に照らされた境内に、一つの人影が立っていた。


 白衣(びゃくえ)に緋袴(ひばかま)。

 長い黒髪を夜風になびかせた、凛とした佇まいの少女。

 本職の巫女装束だが、彼女が手にしているのは祓い串ではない。

 身の丈ほどもある、長大な日本刀だった。


「――遅かったな」


 鈴を転がすような声だが、そこには一切の感情がなかった。

 彼女がゆっくりと振り返る。

 その瞳は、獲物を見定める猛禽類のように鋭く、俺たちの心臓を射抜いていた。


「誰だ、あんた……?」


 俺の問いに、彼女は静かに答える。


「この地より、強大な土気を感じて来てみれば……まさか、『古き神』が受肉していようとは」


 彼女の視線が、スヒジニに向けられる。

 そこにあるのは敵意というより、汚らわしいものを見るような「祓う者」としての目だった。


「土に還るべきものが、現世(うつしよ)で飯を食らい、人をたぶらかすか。……嘆かわしい」

「……言葉を選べ、小娘」


 スヒジニが低く唸る。

 お互いの神気がぶつかり合い、見えない火花が散るようだ。


 少女は流れるような動作で刀を構えた。

 切っ先が、正確にスヒジニの喉元を狙う。

 その構えには一切の隙がなく、達人などというレベルを超えた、神懸かり的な「武」の気配が漂っていた。


「我が名は香取(かとり) 凛花(りんか)」


 彼女は告げた。絶対的な宣告として。


「香取神宮(かとりじんぐう)より遣わされし、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)の代行者なり。――災いの種となる古き神よ。そして、その封印を解いた愚かなる物部よ。剣の理(ことわり)をもって、その因縁ごと断ち切ってくれる」

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