第7話

 次の日、クニから言われた3つを守りながら仕事をこなした。残業を終え、パソコンをシャットダウンして時計を見ると、すでに十九時を回っていた。窓の外はすっかり暗く、街灯に照らされて小雨が細く降っているのが見える。

 今朝の朝のニュースでは雨予報なんてなかったのになあ。そう思いながら、カバンの底から折り畳み傘を取り出し、会社のエントランスを出た。

「圭……? 圭じゃないか! 」

「え」

 傘を開き、歩き出そうとした瞬間、背後から名前を呼ばれた。無性に胸騒ぎがする、聞き覚えのある声に、反射的に振り返る。そこに立っていたのは、寺崎航だった。

「寺崎、さん……?」

「うわー! 本当に圭だ! 久しぶりだな!」

 高揚した声とは対照的に、僕の思考は一拍遅れる。そこにいたのは、スーツに身を包んだ大人の男だった。サラリと流している黒髪と精悍な顔つきが昔より一層様になっている。僕より2つ上だから今年28歳のはずだ。この前あったのは、僕が大学生の時だったはずだ。

「……どうして、ここに?」

「四菱物産。今はそこに勤めてるんだ」

 さらりと告げられた社名は、都内でも誰もが知る大企業だ。確かこのビルから三つほど隣に本社が入っているはずだった。

「そっちこそ、会社帰り?」

「……うん」

「そっか。相変わらず真面目そうだな」

 寺崎さんはそう言って、僕の顔をまじまじと見つめる。

「圭は変わらないな。昔から綺麗な顔してる」

「そ、そんな……」

 思わず視線を逸らすと、寺崎さんは楽しそうに笑った。

「照れるなって。昔から言ってただろ」

 雨音が、二人の間を埋める。傘越しに感じる距離が、妙に近い。

「なあ」

 少し声のトーンを落として、寺崎さんが続けた。真面目な視線に少しだけ熱がこもっているのが分かる。

「もしよかったらさ、今度飯でも行かないか。久しぶりにちゃんと話したい」

 胸の奥が、かすかにざわついた。断る理由はないはずなのに、言葉がすぐには出てこない。

「その、えっと」

「……急にごめんな」

 一瞬の沈黙を気にしたのか、寺崎さんは苦笑して頭をかいた。

「でも、偶然会えたのって、結構すごくないか? この辺りは会社も多いし」

「……確かに」

「じゃあさ、また偶然に賭けるより、ちゃんと連絡取れた方がいいだろ」

 そう言って、寺崎さんはスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出した。

「圭、今も番号変わってない?」

「……変わってる」

「だよな。一回かけたら、ただいま使われておりませんって言われたことある」

 ということは、寺崎さんは僕と連絡を取ろうとしてくれていたのだろうか。画面を操作しながら、こちらに向けて差し出してくる。

「よかったら、連絡先教えてくれないか。飯の話じゃなくてもいい。近況とか気軽に連絡くれよ」

 押しつけがましさはなく、逃げ道も残した言い方だった。それが、かえって断りづらい。僕は一瞬だけ迷ってから、自分のスマートフォンを取り出した。

「……じゃあ」

「ありがとう」

 画面越しに名前を打ち込む指先が、雨の音に混じってやけに近く感じられた。


ーーーーーーーーー


 クニがぜんざいの缶を開けると、甘い匂いが狭いアパートに広がった。

「……で」

 スプーンを口に運びながら、クニが何気なく言う。

「今日会社の前で声かけてきた男は知り合いか?」

「……寺崎、さんは、僕の生まれた田舎村の人だよ」

 名前を口にしただけで、胸の奥がきしんだ。無意識に視線を逸らすと、クニはその反応を見逃さなかった。

「へえ。昔馴染み、ってやつか」

 寺崎は、僕の中学時代の同級生だ。都会に出てから偶然再会した。昔と変わらず人懐っこく、少し強引で、そして僕へ好意を向けることを隠さない男だ。

「飯行こうとか、やけに距離近かったな」

「……昔からああなんだ」

「ふーん」

 クニはそれ以上突っ込まなかったが、ぜんざいをかき混ぜる手が一瞬止まった。
 不思議そうに、僕を見る視線だけが残る。惚れっぽい僕が、拒まない代わりに受け入れもしないことを疑問に思っているだあろう。

 寺崎さんは優しい。悪い人間じゃない。それでも、彼が自分に伸ばす「縁」が、どうしようもなく怖かった。罪悪感で押しつぶされてしまいそうで。

 忘れようとしていた記憶が勝手に引きずり出される。


ーーーーーーーー


 僕の生まれた村は、雪深い山の奥にある人口300人ほどの小さな集落だった。バスも滅多に来ないし、携帯もほとんど繋がらず、あるのは豊かな自然だけ。けれども、今でも目を閉じれば思い出すことができる。川の水は透き通り、夕方に見える棚田の風景は息を呑むほど美しかった。

 その村では、村の中心にある小さな神社を拠り所としていた。



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