第54話:嵐の前の宿屋


「おーい!サキュウスー!起きてるー!?」


 宿屋の廊下に響き渡るユリの声は、明るさを装ってはいるものの、どこか焦りと苛立ちが滲んでいた。


「ユリ、やめなさい」


 マリーの静かな声が、彼女をたしなめる。白い法衣に身を包み、三角帽子をかぶったその姿は、まるで聖女のように凛としていた。


「だってさー!ずっと引きこもったまんまだよー?」


 ユリは腕を組み、唇を尖らせて部屋の扉を睨みつける。黒装束の裾が揺れ、彼女の落ち着かない心を映し出していた。


 3人は「天使の零落」と呼ばれる遺跡の外に出て、近くの古びた宿屋に身を寄せていた。窓の外には、霧がかった森と、崩れかけた神殿の尖塔がぼんやりと浮かび上がっている。空は曇天に覆われ、まるでこの地に漂う不穏な空気を象徴しているかのようだった。


「あーあ、でもさ、聖武具を持って行かなくて正解だったねー。あれがボワンって、鍋の中に入れられて、変なアイテムにされちゃってたら、一大事だったよー」


 ユリはため息混じりに言いながら、腰の短剣を指で弄ぶ。


「ミリアリア如きを相手にするため、聖武具を持ち出すなんて許されません。それに、聖剣を失ったのも十分な一大事です」


 マリーの声は冷静だったが、その瞳の奥には、どこか張り詰めた緊張が見え隠れしていた。


「ま、そもそも、魔王が死んじゃってるんじゃ、聖武具なんて使えないしねー」


 ユリは軽く笑ってみせたが、その笑みはどこか空虚だった。まるで、自分に言い聞かせるように。

 サキュウスが持っていた剣は、確かに伝承に名を残す名剣だったが、十二の聖武具には数えられていなかった。聖武具――それは、選ばれし者にのみ扱う資格が与えられる、神代の遺産とも言うべき存在。勇者、聖賢者、忍者、竜戦士――それぞれに与えられた力は、世界の理すら覆すとされていた。



「でも、聖武具かー!せっかく、忍者を授かったんだし!一回で良いから使ってみたかったなー…」


 ユリは窓辺に腰を下ろし、頬杖をついて外を見やった。彼女の瞳には、どこか遠くを見つめるような寂しさが宿っていた。


「そうね」


 マリーもまた、窓の外に視線を向ける。朽ち果てた神殿の尖塔が、灰色の空に溶け込むように立っていた。


「ミリアリア…そして、サキュウス卿は、魔王と一緒に旅をしていたのですよね」


 その言葉には、疑念と哀しみが入り混じっていた。マリーは、かつての英雄がなぜこうも変わってしまったのか、答えを見つけられずにいた。


「うーん、本当かどうかわからないけどねー!サキュウスのあの様子じゃ、デマなんじゃない?ミリアリア!ミリアリア!!って、いつも言っているし」


 ユリは冗談めかして笑ったが、その声にはどこか張り詰めた響きがあった。彼女もまた、サキュウスの変化に戸惑い、心の奥で不安を抱えていたのだ。


「…そうですね」


マリーの返事は短く、しかし重かった。

そのとき、不意に部屋の扉が音を立てて開いた。冷たい風が吹き込み、二人の会話を断ち切る。

 姿を現したのは、長い沈黙を破ったサキュウスだった。彼の顔はやつれ、目の下には深い隈が刻まれている。しかし、その瞳だけは、鋼のように強く、何かを決意した光を宿していた。


「聖武具を使うぞ」


 その一言は、まるで雷鳴のように部屋の空気を震わせた。


「へ?」


 ユリは目を瞬かせ、マリーは思わず立ち上がる。


「サ、サキュウス卿?」

「それに、アシュリーの奴を呼べ」

「ちょっと待って!アシュリーは別任務でいないし!聖武具の許可なんて下りるわけないでしょー!」


 ユリは声を荒げ、頬を膨らませて抗議する。しかし、サキュウスの眼差しは揺るがなかった。


「ミリアリアを止めねばならん!魔王以上の脅威を感じるのだ!!」


 その声には、狂気とも取れるほどの切迫感があった。だが、そこに宿るのは妄想ではない。確かな“何か”を見た者の声だった。


「いつもの…発作?」


 マリーの声は静かだったが、その指先はわずかに震えていた。


「発作ではない!マリー卿!すぐにミリアリーデ殿下…こほん!猊下に連絡を!」

「…承知しました」


 マリーは頷き、すぐに行動を開始する。その背中には、聖職者としての覚悟と、ひとりの人間としての不安が同居していた。

 部屋の空気は、もう先ほどまでの穏やかさを失っていた。嵐の前の静けさのように、重く、張り詰めていた。

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