第36話:水精の杯と忍びの影
透き通るほど澄んだ湖面は、まるで鏡のように静まり返っていた。そこに映るのは、天から舞い降りる銀髪の少女——メグー。その髪は陽光を受けて淡く輝き、まるで星屑が舞い降りてくるかのような幻想的な光景だった。
「メグーちゃん!!グリー!!お願い!!」
アニーの叫びは、焦燥と祈りが入り混じった声だった。空中で突然小さくなってしまったメグーは、両腕で杯をぎゅっと抱きしめていた。その小さな体が風に煽られながらも、彼女の瞳は真っ直ぐに杯を見つめている。中身をこぼすまいとする。
その瞬間、風を裂いてグリーが舞い降りる。黄金の翼が陽を受けて煌めき、彼の背にメグーをそっと乗せた。
「ふぅ…メグーちゃん!無事!?」
「うん!ぶじぃ!!」
小さな指でVサインを作るメグーの笑顔に、アニーの胸がじんわりと温かくなる。あの頃と同じ、初めて出会ったときの無垢な笑顔。魔力を使い果たして縮んでしまったのだろうが、その姿はどこか懐かしく、愛おしかった。
だが、安堵の時間は一瞬だった。
「がぼぼぼ!!だ、だずげでぇ!!」
水面でバタつくケビンの声が、場の空気を一変させる。彼の地味な服は水を吸って重く沈み、必死に手足を動かす様は、まるで溺れる小動物のようだった。その周囲には、巨大な水棲魔物の影が蠢いている。
「ケビンさん!!」
アニーはグリーの背を軽く叩き、即座に飛び出す。風を切って水面へと急降下し、嘴でケビンの襟を掴んで引き上げた。直後、水面が爆ぜ、魔物の顎が空を裂くように飛び出してきた。ほんの一瞬の差だった。
「あ…あわわわ」
「ふぅ…ケビンさん?無事?」
「ぶじー?」
ケビンの目はぐるぐると回り、口元は引きつった笑みを浮かべていた。
「あははは…あは…あは」
「ケビンさん?」
「こわれてる」
アニーはそっと視線を逸らした。今は…そっとしておこう。
「ね!お母さん!」
「ん?なにー?メグーちゃん?」
「たべていい?」
メグーは目を輝かせながら、杯を両手で掲げていた。アニーが微笑んで頷くと、メグーはスプーンを手に取り、透明なドームをじっと見つめる。青白く揺らめく水の精霊のエッセンスが、彼女の銀髪と共鳴するように淡く光を放っていた。
「……きれい……」
その囁きは、湖面に落ちる一滴の雫のように静かで、澄んでいた。スプーンがドームに触れると、ぷるんとした寒天が優しく弾け、とろりとした液体がゆっくりと溢れ出す。
一口、口に運ぶと——
「……っ!」
メグーの瞳がふわりと見開かれた。海のような深いミネラルの余韻と、朝露のような清らかな冷気が、舌から喉奥へとすっと流れ込んでいく。まるで風が体内を通り抜けたかのような感覚に、彼女は目を閉じ、頬を紅潮させた。
「……おいひぃ」
もう一口、今度はゆっくりと味わうように。彼女の表情は、まるで花がほころぶようにやわらかくなっていった。
その様子を見ながら、アニーはそっとスキルを空発動する。だが——
「あれ?」
スキル一覧に『水の精霊』がない。おかしい。ケビンさんがアイテムに変え、メグーちゃんが食したはずなのに。
「…そういえば、幽霊もいない」
霧の中から襲ってきた幽霊も、同じくスキルに反映されていない。
「どうしたのさ、そんな困った顔しちゃって」
その声は、空気を裂くように不意に現れた。
黒装束の女性——ユリ。
重力を無視したように逆さまに浮かび、胡坐をかいてアニーの目の前に現れる。
「っ!?」
「こんちわー!私はユリ!」
「だれー?」
「わ、可愛い…ん?銀髪?」
ユリはメグーの髪を見て、何かを思い出したように目を細める。
「あ、あれ…まさか?ユリ様?」
「ん?下からも誰かの声がするぞー?」
グリーの背で運ばれていたケビンが、騒がしい背後に気付き、顔を青ざめさせる。
「ユリ様!?」
「おろ?私のこと、知っているの?」
ユリはくるりと一回転し、ケビンの前にふわりと浮かぶ。
「勇者様一行の!斥候をされている方ですよね?」
「ほほう…私も有名になったもんだ。うん」
どこか気の抜けたような笑顔を浮かべながらも、ユリの瞳は鋭く、油断ならない光を宿していた。
「でも、ごめん…みんなのためなんだ。ちょっと、大人しくしててちょーだいね」
「え?…あっ…」
アニーの体が、ピタリと動かなくなる。金縛りのような感覚。ケビンも同様だった。
「グリフォンちゃんは、そのまま滞空しつつ、大人しくしててね」
「…」
グリーの黄金の瞳からは光が消えていた。まるで操られているかのように、無表情で空を飛び続けている。その背で、アニーは身動きが一切できず、まるで蠟人形のようだ。その後ろでグリフォンに乗っているメグーはキョトンとした表情でアニーの肩に手を伸ばして、その背を揺らす。
「あれ?お母さん?どうしたの?」
「…」
メグーの言葉に、アニーからの返事はない。
「お母さん?」
肩を掴む手の力を強めて、激しくアニーの体を揺らすメグー
その姿を見たユリは怪訝そうな声を響かせた。
「おろろ?」
「ね、お母さんに、悪いことしたのお前?」
メグーは空中でプカプカと胡坐をかいて浮かぶユリをジト目で睨む。
「うーん、私の忍術が通じないのかな?」
「…みんなを解放して」
「っ!?」
メグーの言葉に、周囲のナニカが弾ける。
すると、翼を羽ばたかせたまま滞空していたグリーが急上昇する。ユリから距離をとるためだ。
「あちゃ…これ、仕事、増えちゃわない?」
ユリは天へ昇っていくグリーを見上げながら、めんどくさそうに呟いていた。
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