【犬】



 坊ちゃんもご存知の通り、わたくしは坊っちゃんが居ない間もこの家をずっと見守ってきました。

 このことについては老犬の妄言と聞き流さず、どうか落ち着いてお聞きください。


 あの日、わたくしが午後の巡回に参ったときのことです。

 ええ、わたくしはこの家の安全を担うべく庭先に寝床を構えておりますから、午前と午後に一度ずつ、毎日欠かさず辺りの見回りに出ることを使命としております。過去には家に入り込もうとする不審者をわたくしのひと吠えで撃退したこともあるのですよ――まあ、後から聞くにそれは郵便配達の青年だったらしいのですが。

 最近は歳のせいか視力が少々怪しくなってしまいましたが、それゆえに最近では若い頃のように遠くから一瞥して終わりではなく、隅々までしっかりと確認するようにしております。

 あの日もわたくしは昼食を取ったあと畑を通って納屋の中を覗き、水路沿いにぐるりと回って一度家に戻ってから、今度は裏手の確認へ出掛けました。

 そこで見てしまいました。

 ご主人が藪の向こう側で倒れているのです。

 それだけではありません。ご主人の腹の辺りからはだくだくと血が流れていました。まるで悪漢に刃物でひと突きされたような惨状でした。その傍らには、血で濡れた鎌が落ちておりました。ご主人が畑作業で使っていたものです。

 そして、ご主人の隣にはわたくしと同じく駆けつけたと思しきお母様がご主人を抱え上げようと奮闘されていました。それを見てわたくしは当然、お母様は怪我したご主人を助けようとしているのだと思いました。しかし、おかしなことにご主人はその手を振り払って、懸命にこちらに手を伸ばしているのです。

 ええ、ご主人様は、わたくしに助けを求めていたのです。わたくしはすぐにでもご主人の手を取るべきか、まずはお母様をご主人から引き離すのが先か、咄嗟の判断を迫られました。

 ……正直に申し上げましょう。わたくしは決断することが出来ませんでした。長年忠誠を尽くして来たご主人と、毎日わたくしに食事を用意してくれるくれるお母様。その間で狼狽えるばかりでした。

 ただ、ちょうどそこにはお嬢様もいらっしゃって、私のすぐ隣で呆然と立ちすくんでおられました。そうしますと、お嬢様がパッと駆け出しお母様をご主人から引き離すべく服の背を引っ張り始めたので、わたくしもそれに加勢する流れになったのでございます。

 不思議に思われますか? お母様に協力するという選択肢を早々に切り捨てたわたくしたちの判断を。

 これには少々前日譚がございます。坊っちゃんはご存知ないでしょうが、少し前から、ご主人とお母様の間には、見えない氷河が横たわるようになっていたのです。

 きっかけがあるとすれば――あのですね、決して坊っちゃんを責めたい訳ではございません。それを胸に留めて聞いていただきたいのですが――お嬢様がこの家にいらしたことです。

 お嬢様は年頃の娘だというのを差し引いても、大変美しいお嬢様です。それにお優しい。お嬢様は、昼食を召し上がった後、よくご主人の畑仕事をお手伝いしていました。慣れない手捌きで道具を操るお嬢様の手を取り、共に野菜の手入れをする様子は微笑ましい光景でした。

 ご主人は、そのお嬢様の優しさを別のものと捉え間違えたのかもしれません。

 畑で汗を流しながら笑い合っていた二人は、いつしか、道具を置いて真剣な顔で向かい合っている時間の方が長くなってゆきました。あれは、祖父と孫娘の語らいではありませんでした。では何かと申しますと……男性と女性でございます。

 ええ、二人が沈み行く夕日に照らされながら、視線を絡ませ何事かを囁き合うところを、わたくしは玄関の前に拵えていただいた寝床からずっと見ていたのです。間違いありません。

 二人は毎日そんな調子ですので、遅かれ早かれお母様に勘付かれるのは当然のことでしょう。家の中でどんな会話がなされていたかは分かりませんが、その頃からお母様はご主人のことを避けるようになっていたのです。

 ああ、あの時わたくしが上手く二人の仲を取り持ってさえいれば……。

 とにかくですね、あの日わたくしたちに背を引かれたお母様はそのまま後ろにたたらを踏み、ご主人を薮から引っ張り出すことは諦めたようでした。急に力を抜いて、その場に座り込んだのです。しかし、わたくしたちはそこで油断するべきではありませんでした。次にお母様は、ご主人をそこに残したまま薮の中に火を放ったのです。

 一体どうやって、ですか? 実は、火種は最初からそこにありました。

 パイプです。

 ご主人がそこで使っていたのでしょう、いつも畑で使っているパイプが、火がついたままその場に落ちていたのです。お母様は、それを山になった枯草の中に投げ込みました。

 空気もひどく乾燥する季節です。火はあっという間に大きくなり、煙の嫌な匂いで鼻が潰れそうでした。

 わたくしたちは怪物のように襲いかかる炎から逃げるため散り散りになって、そのせいで藪の様子を見届けた者は誰もいなかったのではと思います。

 だから、わからないのです。

 燃やし尽くされた藪の中から、ご主人が跡形もなく消えてしまったのはどうしてなのか。

 ご主人は、どこへ行ってしまったのか。

 しかしわたくしは、枯草の中から炎が立ち上がった瞬間のお母様の顔を忘れることが出来ません。

 無、でした。全ての感情を削ぎ落としてしまったかと思うほど、のっぺりとした能面のような表情で炎を見上げていらっしゃったのです。

 それをお嬢様もご覧になったはずです。その時にきっと理解してしまったんでしょう。藪の中で流れた血について。

 自分の祖母が祖父を手にかけたのだということを。

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