第二話 沈黙の証拠収集
ビジネスホテルを少し広くした程度の、無機質な空間。それが今の俺の城だった。
都内のウィークリーマンションの一室。必要最低限の家具と家電だけが備え付けられたこの部屋には、生活の匂いというものが一切ない。壁は白く、カーテンはグレー。まるで俺の今の心象風景をそのまま具現化したかのようだった。
「……こんなものか」
コンビニで買ってきた冷えた弁当を温めもせずに口に運びながら、俺は自嘲気味に呟いた。
数日前まで、俺には帰るべき家があった。こだわりの家具で揃えたリビング、寝心地の良いベッド、そして何より、愛する妻の笑顔があったはずだった。それが今や、DV夫という汚名を着せられ、着の身着のまま放り出された身だ。
会社には有給休暇を申請した。上司は渋い顔をしたが、俺に対する奇異な視線と噂が社内に蔓延していることを察しており、「少し頭を冷やしてこい」と半ば厄介払いのような形で受理された。
だが、俺にとってはこの孤立無援の状況こそが、反撃への土台作りに最適だった。誰にも邪魔されず、誰の目も気にせず、徹底的に「作業」に没頭できるからだ。
デスクの上に広げたのは、高性能なノートパソコンと、数台のハードディスク。そして、探偵事務所から受け取った調査報告書だ。
俺はシステムエンジニアだ。感情の処理は苦手かもしれないが、データの処理なら誰にも負けない。バグを見つけ出し、原因を特定し、修正する。あるいは、システムそのものを破壊するウイルスを仕込む。それは俺の日常業務であり、最も得意とする領域だった。
「さて、始めるとするか」
俺はパソコンのキーボードを叩いた。画面に羅列される文字列。
俺がまずアクセスしたのは、かつての我が家――現在は美咲と新堂が我が物顔で占拠しているマンションの、ホームネットワークだ。
あの一軒家を購入した際、俺は趣味と実益を兼ねて、家中の家電やセキュリティをネットワークで管理するスマートホーム化を推し進めていた。照明、エアコン、鍵の施錠管理。そして防犯と、留守中のペット(飼う予定だった)の見守り用として設置した高解像度のネットワークカメラ。
リビング、寝室、玄関。主要な場所にはすべてカメラがある。
美咲は機械に疎い。「便利ね」とはしゃいでいたが、その仕組みなど理解していないだろうし、俺が追い出されたからといって、Wi-Fiのパスワードを変える知恵も、ルーターを初期化する発想もないはずだ。新堂に至っても、不動産営業という職種柄、表面的なスペックには詳しいかもしれないが、バックエンドの仕組みまでは頭が回らないだろう。
案の定、俺の管理者IDは生きていた。
モニター画面に、三分割された映像が映し出される。
そこに映っていたのは、見慣れた我が家のリビングだった。だが、そこにいるのは俺ではない。
我が物顔でソファに寝そべる新堂と、その膝に頭を乗せて甘える美咲の姿だった。
『ねえ、裕也くん。これ、すごく美味しい』
『だろ? 美咲のためにわざわざ取り寄せたんだ。あいつ、こんな気の利いたこと一度もしなかったんだろ?』
『うん。聡くんってば、いつも仕事ばっかりで。プレゼントなんて実用的なものばっかりだし、センスなくて』
スピーカーから流れてくる音声はクリアだった。
二人は高そうなワインを開け、デリバリーのピザを広げている。俺が必死に働いて稼いだ金で維持されている部屋で、俺を嘲笑いながら宴を開いているのだ。
胃の奥が焼けつくような怒りが込み上げる。だが、俺は表情一つ変えずに録画ボタンを押した。
怒るな。記録しろ。感情を殺せ。今はただのレコーダーになれ。
俺は自分にそう言い聞かせ、画面の中の醜悪な現実を、冷徹なデータとして保存していく。
数時間の監視の後、決定的な瞬間が訪れた。
それは夕食後のことだった。美咲が化粧ポーチを持ってリビングに戻ってきた。
『ねえ、そろそろ次の写真撮っておかなくていいかな? 弁護士さんが、証拠は多ければ多いほどいいって』
『そうだな。じゃあ、今度はもう少し派手なやつにするか。「突き飛ばされて家具にぶつかった」設定でいこう』
新堂は楽しそうに笑いながら、美咲のポーチからアイシャドウのパレットを取り出した。紫、青、茶色。それらの色を巧みに指に取り、美咲の二の腕や太ももに塗りつけていく。
『うわ、すごい。本当にアザみたい』
『だろ? 俺、高校の文化祭でメイク係やったことあるからさ。ほら、ここを少し黄色くぼかすと、数日経ったアザに見えるんだよ』
『キャハハ! 裕也くんすごーい! これなら絶対バレないね』
美咲は自分の腕に描かれた偽のアザを鏡で見て、無邪気に笑っていた。
俺の目から、すっと温度が消えた。
彼女は、俺を社会的に抹殺するための証拠捏造を、「楽しい工作」か何かのように楽しんでいる。俺がどれだけ苦しもうが、俺の親がどれだけ心を痛めようが、彼女にとってはゲームのイベントに過ぎないのだ。
新堂がスマートフォンを構える。美咲がさっと表情を変え、痛みに耐えるような、怯えたような顔を作る。
『はい、チーズ……いや、「痛い」か』
『痛い……怖いよ、聡くん……』
カシャ、カシャ、というシャッター音がスピーカー越しに響く。
撮影が終わった瞬間、二人は顔を見合わせて爆笑した。
『最高! これ、インスタの裏垢にも載せちゃおっかな。「辛いけど頑張る」みたいな感じで』
『いいねえ。同情票が集まれば集まるほど、あいつは追い詰められる。慰謝料の桁が変わるかもよ?』
『えー、本当!? じゃあもっと撮ろうよ! 新しいバッグ欲しいし!』
俺はこの一連の流れを、映像データとしてクラウド上の隠しフォルダに保存した。ファイル名は日付と時刻。バックアップは三重にとってある。
これだ。これこそが、奴らの息の根を止める「銀の弾丸」になる。
「DVがあったかどうか」の水掛け論ではない。「DVを捏造している現場」そのものの映像。これを突きつけられれば、どんな弁護士だろうと言い逃れはできない。
だが、俺の手はそこで止まらなかった。
新堂裕也。こいつをただの不倫男として断罪するだけでは温すぎる。
俺の家庭を壊し、俺の人格を否定し、土足で踏み荒らした男だ。社会的に、二度と立ち上がれないほど徹底的に叩き潰さなければ気が済まない。
画面の中で、新堂がノートパソコンを開いたのが見えた。
美咲がシャワーを浴びに行き、一人になった新堂は、ワイングラスを片手に仕事を始めたようだ。
『……チッ、今月のノルマきついな。まあ、なんとかなるか』
独り言を呟きながら、彼はキーを叩いている。
俺は即座に、ネットワークのトラフィック解析ツールを起動した。
新堂が接続しているのは、俺の家のWi-Fiだ。つまり、通信内容は全て俺の管理下にあるルーターを経由している。
SSLで暗号化されてはいるが、接続先ドメインやパケットの動きを見れば、彼が何をしているかはある程度推測できる。さらに言えば、俺はこのネットワークの管理者だ。以前、セキュリティテストのために仕込んでおいたパケットキャプチャと、キーロガーに近い挙動をする監視スクリプトが火を噴く時が来た。
彼がアクセスしているのは、会社の業務システムと、個人のネットバンキング、そして裏帳簿のようなスプレッドシートだった。
俺は画面の向こうで、新堂の指の動きと画面の反射、そして通信ログを照らし合わせる。
不動産営業マンである彼は、どうやら顧客から預かった手付金や、経費の一部を操作しているようだった。
『……よし、これで美咲へのプレゼント代は浮いたな。架空の接待費で処理して……と』
マイクが拾ったその呟き。そして、画面上に一瞬映ったスプレッドシートの数字。
「株式会社〇〇 接待費 50,000円」
その直後に開かれたネット通販の購入履歴には、美咲が欲しがっていたブランドの財布、50,000円。
あまりにも杜撰で、あまりにも分かりやすい横領の手口。
会社の金を私的に流用し、それを「経費」として処理している。しかも、その金で俺の妻を買い、俺を追い詰める資金にしているのだ。
「馬鹿な男だ……」
セキュリティの専門家からすれば、他人の家のWi-Fi――それも、現在進行形で敵対している相手の家の回線を使って不正行為を行うなど、自殺行為に等しい。彼は自分が「勝者」であり、俺を完全に無力化したと思い込んでいるからこそ、こんな隙を見せるのだ。
俺はこの通信ログと、画面のキャプチャ、そして音声をすべて保存した。
これは、美咲との離婚裁判で使うものではない。
新堂の会社――コンプライアンスにうるさい大手不動産会社の本社監査部に送りつけるための爆弾だ。
夜が深まり、画面の中の二人は寝室へと消えていった。
その後に行われる行為を想像するだけで反吐が出るが、それすらも証拠として記録し続ける必要がある。不貞行為の立証には、肉体関係の証明が不可欠だからだ。
俺はヘッドホンを外し、深く息を吐いた。
疲労感はある。だが、それ以上に精神は研ぎ澄まされていた。
スマートフォンの通知が鳴る。
SNSの通知だ。美咲のインスタグラムが更新されていた。
俺は無表情で画面をタップする。
『今日は古い友人が励ましに来てくれました。ずっと一人で泣いてたけど、少しだけ笑顔になれたかな。辛いことばかりだけど、私を支えてくれる人がいることに感謝。#モラハラ #サレ妻 #負けない #リスタート』
投稿された写真には、カフェラテを持つ美咲の手と、その向かいに座る男――新堂の手元が映り込んでいる。顔は写していないが、匂わせとしては十分だ。
コメント欄には、事情を知らない友人や、ハッシュタグから飛んできた他人からの同情コメントが溢れていた。
「美咲ちゃん大丈夫? 無理しないでね」
「そんな旦那、早く別れちゃいなよ!」
「守ってくれる人がいてよかったね。応援してる!」
「DV男なんて社会的に死ねばいいのに」
画面をスクロールする指が震えそうになるのを、必死で堪える。
俺を悪者にし、自分は悲劇のヒロインとして承認欲求を満たす。その嘘に、多くの善意の第三者が踊らされている。
俺の職場にも、おそらく同様の噂が流れているはずだ。「高村は奥さんを殴っているらしい」「最低な男だ」と。
今、俺が何を言っても誰も信じないだろう。
「真実」というものは、声の大きい方、可哀想に見える方に味方するからだ。今の段階では。
「……今はいい。好きなだけ踊っていればいい」
俺はスマホを伏せ、再びパソコンに向き合った。
探偵の黒田から送られてきた追加データを開く。そこには、新堂の職場での評判や、過去の女性遍歴、そして美咲との密会写真が詳細に記されていた。
さらに、親族関係のリスト。美咲の両親、親戚、そして新堂の両親と職場の上司。
俺はエクセルを開き、それらの連絡先を丁寧にリスト化していく。
メールアドレス、LINEのID、会社のFAX番号。
全ての「宛先」をリストアップする。
数日後、俺の元に一通の封書が届いた。
差出人は美咲の弁護士……ではなく、共通の友人から転送されてきた「案内状」の画像だった。
『この度、苦難を乗り越え、パートナーとして新たな人生を歩むことになりました。ささやかながら、お披露目のパーティを開催いたします』
添付された画像には、幸せそうに微笑む美咲と新堂の写真。
日付は来週の土曜日。場所は都内の洒落たレストランを貸し切りにするらしい。
まだ離婚も成立していないというのに。「パートナー」だと?
そこには、俺への当てつけと、「もう勝負はついた」という勝利宣言が含まれているのだろう。俺を悪役として断罪し、自分たちの愛を正当化するための公開処刑場。それがこのパーティの正体だ。
「……招待ありがとう、美咲。新堂」
俺は画面に向かって、冷たく微笑んだ。
最高の舞台だ。
彼らは自ら、これ以上ないほど多くの観客を集めてくれた。
親族、友人、会社関係者。彼らにとって「自分たちの正義と幸福」を見せつけるための観客は、同時に、彼らの破滅を目撃する証人となる。
俺は作成した証拠データのフォルダ名を変更した。
フォルダ名は『祝辞』。
中には、捏造の現場映像、不貞の証拠、横領のログ、そして彼らが俺を嘲笑う音声データが詰まっている。
あとは、これを適切なタイミングで、適切な相手に届けるだけだ。
「仕上げだ」
俺は探偵の黒田にメッセージを送った。
『例の件、準備完了です。当日、よろしくお願いします』
すぐに既読がつき、『了解。スクリーンハックの準備も万全だ』と返信が来た。
ウィークリーマンションの窓から見える東京の夜景は、どこか冷たく、しかし美しく輝いていた。
俺の心もまた、氷のように冷たく静まり返っている。
怒りはもう、爆発するものではない。ただ、彼らを確実に仕留めるための燃料として、静かに燃え続けているだけだ。
一週間後。
その日が、彼らにとっての命日(社会的な)になる。
俺はパソコンを閉じ、久しぶりに深く眠りについた。夢は見なかった。ただ、断罪の瞬間だけを思い描きながら。
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