第14話 亜澄果の懸念

 夏の夕暮れ。八尾亜澄果やおあすかはラクロス部の練習を終え帰宅途中だった。その足取りは、どこか重い。

 自宅の玄関まで来て、ドアを開けるのさえ躊躇ちゅうちょしてしまう。深呼吸をすると意を決してドアを開けた。

 

「ただいま、ママ」

 

 リビングのソファーに座る母親に声をかけた。

 

「お帰り」

 

 冷めた声色が返ってくる。

 亜澄果には目を向けず、テレビに集中していた。リモコンを手に取るとボタンを押し、音量を上げる。

 少女は唇を噛み締め、自分の部屋があるニ階の階段を上がった。

 

 

「はぁ……」

 

 部屋の扉を閉めると深く息を吐く。そんな彼女に一人のピクシーが寄ってくるのだ。

 

『アスカ、元気がないのね』

 

 彼女を気にかけるピクシーは、亜澄果が助けたくだんの妖精だった。

 真帆の魔力がこもった魔鉱石のお陰もあり、衰弱していたピクシーは無事に回復。亜澄果は自然に返す予定だったが、ピクシーは彼女の部屋に居着いてしまう。

 それでも嫌な気にはならなかった。ピクシーが自分に懐いてくれるだなんて、夢のようじゃないか。

 魔法使いにはなれなくても、妖精と仲良くできる。それが嬉しくて仕方がない。

 

「平気。ありがとう」

 

 亜澄果は笑っているが、その顔は引きつっている。

 ピクシーは小さな手を彼女の頬に添えた。

 

『悲しいのね。大丈夫、ワタシがいるもの』

 

 そう言って少女の頬へ口付けをした。亜澄果はくすぐったくて笑う。

 

「着替えたら夕飯食べに行くね」

 

 

 着替えを終えた亜澄果は一階に降りる。母親はまだテレビを観ていた。

 ダイニングテーブルには二人分の食事が用意されている。一つは亜澄果のもの。もう一つは帰りの遅い父親の分だ。

 亜澄果は冷めた夕飯を電子レンジで温め直し、ダイニングテーブルの椅子に着席すると静かに食べ始める。リビングからは母が観ているドラマの音声だけが聞こえてきた。


 母の作るご飯は美味しいはずなのに、最近は味わえない。母と食卓を囲うことが無くなったからだ。

 「そこに夕飯用意してあるから、自分で食べてね」と3日前に言われた。それからなのだ。今までは一緒に食べてくれたのに……。

 亜澄果が懸念しているのはそれだけではない。母親は明らかに自分を避けた態度をとる。

 

(怒らせたのかな……)

 

 そう思って聞いたこともある。だが「怒ってないわよ」と返された。

 しかし、その時の母親の表情は何かに怯えているように少女は見えたのだ。

 

 ピクシーを家に迎えた後からだろうか。母の様子がおかしくなったのは。

 最初は、ぎこちない表情で亜澄果を見るようになった。本人は笑顔のつもりだろうが、顔は強張っていたのだ。それから、声をかけても視線を逸らすようになる。会話はしてくれるが目を見ない。ついには会話を避けるようになった。亜澄果が声をかけても簡単な返事しか寄越さない。

 今まで、そんな態度をとるような人ではなかった。人の目を見て話し、相槌を打ち、しっかりと話の内容を聞いてくれる。厳しくも愛のある、優しい母親。

 父に対する態度は変わらないのに、自分だけ態度を変えられている。

 それが悲しくて、辛かった。理由もわからないまま、母が離れていく。

 

『泣かないでアスカ。明日、楽しいところに案内してあげるって言ったじゃない』

 

 湯船に浸かる亜澄果に、ピクシーはそう声をかけてきた。

 今朝、ピクシーは『楽しいところに案内してあげるわね』と元気つけてくれたのだ。そこが何処かは知らないが、気を遣ってくれたことが嬉しい。

 

「ありがとう。明日ね」

 

 ピクシーは亜澄果の両手に乗り、にっこりと笑う。

 

 

──深夜。喉が渇いた亜澄果は一階へと降りる。するとダイニングから両親の話し声が聞こえた。

  こんな時間に珍しい。そう思いながら、耳を澄ませてみる。

 

 「最近の君は亜澄果への態度が変だ。一体どうしたんだ」

 

 それは父の声だった。

 

 「おかしくないわよ。私は母親よ」

 

 対する母は苛立っているようだ。

 

 「おかしいだろう。ろくに顔を合わせようとしないし、喋りもしないじゃないか。あの子の顔を見たことがあるか?君に冷めた態度をされるたびに辛そうな顔をしてる。俺は見てられない」

 「なによ!!私が悪いっていうの!?」

 

 普段は声を荒げることのない母親の怒声に、亜澄果は体を縮こませた。

 

 「何を怒ってるんだ?落ち着け!」

 「私だってね、母親として、あの子を愛そうとしてるわよ!……でも……」

 

 母の声が徐々に弱々しくなっていく。

 

 「駄目なの……」

 

 静かな沈黙が続く。亜澄果の鼓動は速まり、手は汗をかいていた。

 

 「もう……無理よ……!顔も見たくないのっ!……限界よ……」

 

 テーブルを叩きつける音が響く。父親が怒鳴り、母親も対抗するように声を荒げた。

 しかし亜澄果には、その喧騒が遥か遠くから聞こえてくるように感じている。

 

(……えっ?)

 

 母親からの初めての拒絶。頭を殴られたような衝撃が襲う。

 

──顔も見たくないのっ!


 母の言葉が頭の中で響く。

 

 

 亜澄果は部屋に戻った。ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずくめる。

 じんわりと目頭が熱くなり、涙が溢れてきた。小さな啜り泣く声は両親には届かない。

 

「……もう、どこか遠くに行きたい……ママのいないところに……」

 

 小さな啜り泣く声は両親に届かない。それを聞いているのは一人のピクシーだけ。

 

『明日は楽しいところに行けるわ!ママのことなんて忘れちゃうくらいね』

 

 ピクシーの小さな手が、亜澄果の柔らかな髪を撫でた。

 

『あなたは一人じゃない。ずっとワタシと一緒よ。ずっとね……』

 

 静かな夜だ。夏の夜空には星が瞬き、笑うように三日月が浮かんでいる。

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