第4話 友情と陰謀
翌朝、蓮の部屋には重苦しい沈黙が漂っていた。
夜の出来事は、夢ではない。
破れた障子、床に残る微かな血の痕。
すべてが、現実だった。
「……本当に、命を狙われた」
呟いた声は、思っていた以上に落ち着いていた。
恐怖が消えたわけではない。ただ、恐れるだけでは済まされないところまで来てしまったという自覚が、心を冷やしていた。
翠鈴が部屋に入ってきたのは、いつもより早い時間だった。
「蓮様」
その表情は硬く、周囲を警戒するように視線を巡らせている。
「……昨夜の件、聞きました」
「翠鈴……」
「ご無事で何よりです」
そう言いながらも、声には微かな震えが混じっていた。
「……怖かったでしょう」
その一言に、胸の奥がきゅっと縮む。
「……はい」
初めて、はっきりと恐怖を認めた気がした。
「でも……それ以上に、混乱しています」
翠鈴は静かに頷き、蓮の前に膝をついた。
「後宮では、知らぬことが最大の弱点になります」
「……知れば、安全になるんですか」
「いいえ」
即答だった。
「知れば、より深く狙われます」
その現実に、蓮は目を伏せた。
◆
暗殺未遂の件は、表向きには「不審者侵入」として処理された。
だが、後宮にいる者たちが、それを鵜呑みにするはずがない。
廊下を歩けば、視線が突き刺さる。
囁き声が、背後で絡み合う。
「聞いた?」
「夜中に騒ぎがあったらしいわ」
「やっぱり、あの孤児……」
蓮は歩調を乱さぬよう、必死に前だけを見つめた。
(怯えたら、終わり)
それは翡翠の言葉だった。
その翡翠は、数日姿を見せなかった。
代わりに、皇帝直属の警護が増え、蓮の周囲は以前にも増して厳重になった。
それでも、安心感はなかった。
敵は、外ではなく、内にいる。
◆
そんな中、蓮に声をかけてきたのは、一人の若い侍女だった。
「……あの、蓮様」
控えめな声。
振り返ると、見覚えのない少女が立っていた。年は蓮より少し下だろうか。丸い目と、少し垂れた眉が印象的だった。
「はい?」
「私、杏(あん)と申します。雑務を任されていて……」
緊張しているのか、言葉が少し早い。
「その……お怪我は、ありませんでしたか」
その問いに、蓮は一瞬戸惑った。
「……ありがとう。大丈夫です」
杏は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかった……」
その反応があまりにも素直で、蓮は思わず微笑んだ。
「どうして、心配してくれたんですか」
「え……それは……」
杏は視線を彷徨わせ、意を決したように口を開く。
「初めてお会いしたとき、蓮様が……怖そうなのに、逃げなかったから」
思いがけない言葉だった。
「逃げなかった……?」
「はい。後宮に来たばかりなのに、ちゃんと前を見て歩いていた」
蓮は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
短い会話だったが、それだけで救われた気がした。
◆
それから数日、杏は何かと蓮の近くに現れるようになった。
お茶を運び、書簡を届け、時には無言でそばに立つ。
「……無理していませんか」
ある日の午後、杏がぽつりと尋ねた。
「無理?」
「はい。笑顔が……少し、固いです」
図星だった。
「……無理していない、と言ったら嘘になりますね」
蓮は苦笑する。
「ここでは、気を抜いたら終わりだから」
「……怖い場所ですね」
「うん。とても」
杏はしばらく黙り込み、やがて小さく言った。
「それでも……私は、蓮様のそばにいたいです」
その言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。
「どうして?」
「理由が必要ですか?」
問い返され、蓮は言葉に詰まる。
「……必要ない、かもしれません」
誰かが味方でいてくれる。
それだけで、心が少し軽くなる。
◆
だが、穏やかな時間は長く続かなかった。
ある夜、蓮は翡翠に呼び出された。
「友を得たようだな」
書庫で向かい合った翡翠は、淡々と切り出す。
「……杏のことですか」
「名を知っているなら、なおさら気をつけろ」
翡翠の声音が、低くなる。
「後宮では、友情も利用される」
「……杏は、違います」
即答だった。
翡翠は、じっと蓮を見つめる。
「そう信じたい気持ちは理解できる」
「なら……」
「だが、信じることと、疑わないことは違う」
その言葉に、胸がざわつく。
「……私は、誰も信じてはいけないんですか」
「違う」
翡翠は、静かに首を振った。
「信じるなら、覚悟を持て」
「覚悟……」
「裏切られたとき、耐えられる覚悟だ」
蓮は唇を噛みしめた。
◆
その頃、後宮の奥では、別の動きがあった。
「……龍の血は、確かに目覚め始めている」
薄暗い部屋で、数人の影が集っていた。
「次の機会を逃すな」
「皇帝の警護が厳しい」
「内側から崩す」
囁き合う声が、闇に溶ける。
◆
数日後、蓮の部屋に異変が起きた。
茶に、微かな苦味。
「……?」
一口含んだ瞬間、舌に違和感が走った。
反射的に吐き出す。
「蓮様!」
杏が駆け寄る。
「……飲まないで」
杏の顔色が変わる。
「これ……毒、でしょうか」
翠鈴が呼ばれ、医官が確認した結果、それは微量の毒だった。
致死量ではないが、長期的に摂取すれば体を蝕む。
「……誰が」
蓮の問いに、誰も答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
◆
その夜、蓮は杏と向き合って座っていた。
「……疑っているわけじゃありません」
それでも、言葉は慎重になる。
「でも……怖いんです」
杏は、はっきりと頷いた。
「当然です」
「え……?」
「疑われて当然の場所ですから」
杏は、真っ直ぐ蓮を見る。
「それでも、私は蓮様を裏切りません」
「どうして、そこまで言えるの」
「……助けたいから」
短く、だが迷いのない答え。
蓮は、ゆっくりと息を吐いた。
「……信じます」
それは、賭けだった。
◆
数日後、皇帝が蓮を呼んだ。
「後宮に、陰謀がある」
単刀直入な言葉。
「すでに承知しております」
蓮は答えた。
「……怖くはないか」
「怖いです」
それでも、目を逸らさない。
「ですが……逃げません」
皇帝は、わずかに微笑んだ。
「その覚悟があるなら、前に進め」
「……前とは?」
「守られる存在から、立つ存在へ」
その言葉は、蓮の心に深く刻まれた。
◆
夜更け、蓮は一人、窓辺に立つ。
後宮の灯りが、遠くに揺れている。
「……私は、孤児のままじゃいられない」
友情を得て、陰謀を知り、命を狙われて。
それでも、ここに立っている。
蓮は、静かに拳を握った。
守りたいものが、できてしまったから。
それは、弱さであり、同時に力でもあった。
友情は、盾にも刃にもなる。
後宮という檻の中で、少女は初めて理解した。
生きるとは、信じることを選び続ける行為なのだと。
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