第3話 龍の血の秘密

その夜、蓮は夢を見た。


 燃えるような赤。

 天と地を分かつほどの巨大な影。

 鱗がこすれ合う音が、雷鳴のように響き渡る。


『――目覚めよ』


 低く、深く、骨に染み込む声だった。


「……っ!」


 跳ね起きた瞬間、喉がひくりと鳴った。

 全身が汗に濡れ、胸の鼓動が異様な速さで打ち鳴らされている。


「夢……?」


 そう呟いた声は、震えていた。


 だが、ただの夢だと片づけるには、あまりにも生々しい。

 鼻腔の奥に、焦げたような匂いが残っている気さえした。


 胸元に手を当てると、心臓の鼓動とは別に、奥底で脈打つものがある。

 まるで、もう一つの鼓動が存在するかのようだった。


「……気のせい」


 そう言い聞かせ、布団から出ようとした瞬間、視界が歪んだ。


「……っ」


 足元がふらつき、思わず柱に手をつく。

 その手の甲に、淡い光が走った。


「……え?」


 驚いて目を凝らすと、光はすぐに消えてしまった。

 だが、確かに見えた。

 血管の下を、赤金色の何かが流れたような感覚。


 恐怖が、背中を駆け上がる。


「……私、どうなってるの……」


     ◆


 朝になると、体調は一見いつも通りに戻っていた。

 それでも、昨夜の出来事が頭から離れない。


「蓮様、本日は礼法の続きがございます」


 翠鈴の声に、はっとして顔を上げる。


「……はい」


 返事をしながら、蓮は自分の手を見つめた。

 何の変哲もない、普通の手。

 光ることも、熱を持つこともない。


(夢だったのかもしれない)


 そう考えようとするたび、胸の奥が微かに疼いた。


 午前の稽古は、昨日以上に厳しかった。

 視線の向け方を誤れば叱責され、沈黙の間合いを間違えれば冷たい目を向けられる。


「ここでは、感情を見せてはいけません」


 年配の女官が言い放つ。


「喜びも、悲しみも、怒りも。すべては弱点になります」


 その言葉を聞きながら、蓮は唇を噛みしめた。


(それでも……私は……)


 感情を殺すことなど、できるのだろうか。

 孤児院で、泣いて、笑って、怒って生きてきた自分に。


     ◆


 昼下がり、蓮は皇帝の命で医官のもとを訪れることになった。


「体調不良があったと聞いた」


 白髪混じりの老医官が、静かな声で言う。


「……はい。突然、息苦しくなって」


「熱はない。脈も安定している」


 医官は首を傾げる。


「ですが……」


 言い淀む蓮に、医官は視線を向けた。


「何か、他に感じたことは?」


 一瞬、迷った。

 昨夜の夢。光る血。

 口にすれば、異常者だと思われるかもしれない。


「……夢を、見ました」


「ほう」


「燃えるような……大きな影が……」


 医官の手が、わずかに止まった。


「……続けなさい」


「声が、聞こえました。目覚めよ、って……」


 沈黙が落ちる。


「蓮様」


 医官は、慎重に言葉を選ぶように続けた。


「そのような夢を見る者は、稀におります」


「……稀に?」


「ええ。非常に、稀に」


 それ以上は語られなかった。


     ◆


 その夜、蓮は再び呼び止められた。

 今度は、後宮の奥、立ち入りを禁じられた小さな書庫だった。


「ここに来るのは、初めてですね」


 そう言ったのは、見知らぬ女官だった。

 年の頃は三十前後。穏やかな微笑みを浮かべているが、目だけが鋭い。


「あなたは……」


「私は翡翠(ひすい)。この後宮で、少し特殊な役目を持っています」


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


「……怖がらなくていい」


 翡翠はそう言いながら、蓮に向き直る。


「ただ、あなたに知っておいてほしいことがある」


 書庫の奥、灯りの下に、古びた巻物が置かれていた。


「これは?」


「血の記録」


 その言葉に、心臓が強く跳ねた。


「この国には、かつて龍と契約した一族が存在した」


 翡翠は淡々と語り始める。


「龍は力を与え、その代償として血を残した」


 巻物に描かれた図。

 そこには、人の姿と、重なるように描かれた龍の影があった。


「……それが、私と何の関係が……」


 問いかける声が震える。


 翡翠は、はっきりと告げた。


「あなたの血は、龍の血を引いている」


 言葉が、頭の中で弾けた。


「……冗談、ですよね」


「冗談ではない」


 翡翠の視線は揺るがない。


「あなたの体調不良、夢、違和感。すべて、その血が目覚め始めた証」


 蓮は一歩、後ずさった。


「そんな……私は、ただの孤児で……」


「いいえ」


 翡翠は首を振る。


「あなたは、龍血の末裔」


     ◆


 その瞬間、胸の奥が熱を帯びた。


「……っ!」


 苦しさに膝をつく。


「蓮!」


 翡翠が支えようとするが、蓮の視界は赤く染まっていく。


 耳鳴り。

 鼓動の暴走。

 血が、燃える。


(……やめて……)


 心の中で叫ぶ。


 すると、不意に静寂が訪れた。


 息が、整う。

 熱が、引いていく。


「……今のは……」


「制御が始まっている」


 翡翠は低く言った。


「目覚めは避けられない。だが、制御できなければ……命に関わる」


 蓮は、震える手で床を掴んだ。


「……私は……どうすれば……」


「学ぶしかない」


 翡翠は真っ直ぐに言った。


「逃げれば、狙われる。隠せば、いずれ暴走する」


 蓮の脳裏に、妃たちの冷たい視線が浮かぶ。


「……このことを、誰が知っているんですか」


「皇帝陛下は、すでに」


 その答えに、言葉を失う。


「だから、あなたはここにいる」


     ◆


 部屋に戻った後、蓮は一人、夜の闇を見つめていた。


(私の血が……)


 怖かった。

 自分が、自分でなくなる気がして。


 けれど同時に、心のどこかで理解していた。


 なぜ、自分が選ばれたのか。

 なぜ、後宮に呼ばれたのか。


「……ただの偶然じゃ、なかった」


 そのとき、窓の外で微かな物音がした。


 次の瞬間、鋭い殺気が、肌を刺した。


「――っ!」


 反射的に身を引く。

 刃が、先ほどまで蓮の頭があった位置を切り裂いた。


「……誰……!」


 闇の中から、低い声が返る。


「龍の血を、渡せ」


 背筋が凍りついた。


 逃げ場はない。

 助けを呼ぶ暇もない。


 だが、その瞬間——


 胸の奥が、再び燃え上がった。


 恐怖よりも、強い衝動。


(……守りたい……生きたい……!)


 蓮の瞳が、赤金色に揺れた。


 風が、唸る。

 見えない力が、襲撃者を弾き飛ばす。


「な……!」


 男の悲鳴とともに、影が消えた。


 静寂が戻る。


 蓮は、その場に崩れ落ちた。


「……これが……龍の……血……」


 涙が、止まらなかった。


 恐ろしくて。

 悲しくて。

 それでも、生きている実感が、確かにあった。


 孤児の少女は、この夜、知ってしまった。

 自分の血が、運命を引き寄せる呪いであり、力であることを。


 そして同時に理解する。


 後宮は、もはや試練の場ではない。

 命を賭けた戦いの舞台へと変わったのだと。

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