第5話 最凶の堕天使と最強の破壊王
遠い日の記憶。 それは、まだ俺が勇者に選ばれる前の、色褪せた古い絵画のような穏やかな日々。
故郷の森で、魔人の襲撃に遭った一人の少女を拾った。 名はアーシェ。 両親を目の前で殺され、泥と血に塗れて震えていた小さな命。
「大丈夫か?」
差し出した手を、彼女は掴むことができなかった。 その心は、絶望という名の重い鉛で満たされていたからだ。 無理に連れ帰ることはせず、ただ静かに隣へ座り込む。 言葉はいらない。 ただそこにいる体温だけで、凍り付いた心は少しずつ溶けていく。
数日後、家に連れ帰った。
「もし、行き場がないなら、俺の家に……」
妹として迎え入れ、不器用ながらも支え続けた。 夜な夜な悪夢にうなされれば、一晩中手を握り、頭を撫でてやる。 言葉ではなく、掌の熱だけが、彼女の世界を繋ぎ止める唯一の楔だった。
アーシェは俺を「兄さま」と呼び、小さな影のようについて回るようになった。 俺が狩りに行けば、木陰から心配そうに見守っている。 その頃の俺には、特別な力なんてなかった。 それでも、彼女にとっては世界で唯一の、最強のヒーローだったらしい。
だがある日、俺は「勇者」に選ばれ、その穏やかな日々は唐突に幕を下ろす。 背負わされたのは「世界の平和」という、あまりにも巨大で空虚な使命。
「必ず、帰ってくるからな」
そう告げて、去った。 だが、約束は果たされなかった。 置き去りにされた悲しみの中で、アーシェは「獣の法」に目覚め、俺を探すために自らも戦場へ足を踏み入れたのだ。
そして数年後。 彼女は史上最年少で『勇者選定』の過酷な試練を突破し、実力でパーティーの席を勝ち取った。 再会を果たした俺たちは、互いを唯一無二の相棒(バディ)として認識した。
◇◆◇
……そして、今。 戦場で、再び俺たちは背中を預け合っている。
アーシェの登場に、戦場の空気が凍りつく。
「……アーシェ?」
ライザの瞳から怒りの炎が消え、困惑が浮かぶ。 ロアンは慈愛の眼差しを向け、ベルゼは獲物を見る目で舌なめずりをした。 だが、ただ一人。 ダルクニクスの冷徹な眼差しだけは、絶対零度のまま変わらない。
「……獣の法か。邪魔だ。用済みだ、消えろ」
その言葉が、新たな地獄のトリガーとなる。
「──面白いッ!」
ベルゼの全身から、太陽を凝縮したかのような熱量が噴き出す。 魔弓に集束された魔力は天を穿つ光柱となり、咆哮と共に解き放たれる。
「《太陽の法》──【劫火灼熱地獄(ごうかしゃくねつじごく)】!!」
天頂へ達した光は、数千の灼熱の隕石となって地上へ降り注ぐ。 アーシェが召喚した魔狼や鴉たちは、その熱波だけで断末魔も上げられずに炭化し、風に散っていく。 一瞬にして、戦況は絶望的な劣勢へと覆されていく。
業火が包み込もうとした、その時。 この全方位飽和攻撃による一瞬の膠着こそ、待ち望んだ唯一の勝機(スロット)。
(──ここだ)
庇うように立つアーシェの背後で、思考が加速する。 世界が、濃密な水中にあるかのようにスローモーションへ落ちる。 降り注ぐ炎の軌跡、熱風に歪む空気、敵の位置、魔力の流れ。 全てが一本の数式となって脳内で解かれていく。
右目に宿るのは、絶望ではない。 冷徹なまでの、殺しの算段。
ルシファーズ・ハンマーが天を向く。 引き金にかけた指が、復讐のコンチェルトを奏で始める。
乾いた銃声が、三度、虚空を叩く。
まず、3発。 放たれた魔弾は隕石落下の轟音を縫い、ライザ、ロアン、ベルゼへと吸い込まれていく。 破壊ではない。 彼らの「時間」そのものを5秒間だけ穿つ、冷たい氷の楔。
(──喰らえ、【ディレイ・ロック・ペイン】)
続く、2発。 銃口はダルクニクスの防御結界へ。 発射された魔弾は陽炎のように揺らめき、空間に溶けて消える。 消えたのではない。 「時を越え」、5秒後の未来、結界が最も脆くなる一点を撃ち抜くための布石。
(──見えたぜ、お前の未来がな。【ゼニス・プロフェシー】)
さらに、4発。 銃士隊の後方、虚空へ撃ち出された魔弾は、地面スレスレの空間から出現し、退路を断つ見えざる壁となる。 そのうちの一発が、ダルクニクスの頬をかすめた。 明確な威嚇。 意識を一瞬だけ揺さぶるための陽動。
これこそが《天の法》の神髄、【キング・オブ・ディメンジョン】。
そして、とっておきの最後の1発(ラスト・バレット)。 それは、ベルゼの魔弓そのものに狙いを定める。 着弾と同時に、術者と標的の位置を強制的に入れ替える、脱出のためのトリガー。
(──チェックメイトだ、【クロス・リロケーション】)
残る2発の【クロノス・リワインド】用魔弾を懐に感じながら、叫ぶ。
「アーシェ! 今だ、逃げるぞ!」
全ての魔弾が役割を果たすべく時空を支配した、コンマ数秒後。 ベルゼの炎が着弾し、世界が轟音と閃光に包まれる。
その光と闇の中心で、奇妙な静寂が訪れる。 ライザ、ロアン、ベルゼの三人が、まるで琥珀の中の虫のように、動きを完全に静止していた。 時が止まったのだ。 同時に、ダルクニクスの結界に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、銃士隊が混乱に陥る。
5秒という永遠。 それが、一瞬で溶け去った。
時が動き出した瞬間、ライザは光速で剣を構え、ベルゼは魔力を集束させ、ロアンは聖なる光を纏う。 だが、その思考すらも計算済みだ。
静止が解ける刹那、ルシファーズ・ハンマーが再び火を噴く。 一発はライザの剣閃の軌道を読み切り、空間を「縫い」、彼女の頬を熱くかすめる。 もう一発はロアンの懐へ。 未来を撃つ【ゼニス・プロフェシー】が、防御膜の薄い瞬間を正確に貫く。
「くそっ!」
ベルゼの叫びも、新たな魔弾によって再び静寂に囚われた。
(よし、あとは入れ替わって脱出するだけだ!)
最後のトリガー、【クロス・リロケーション】の発動を確信し、アーシェの手を掴もうとする。
だが、発動のコンマ1秒前。
「甘いわ!」
ライザの剣速が、思考速度すら超えて閃く。 それは俺を斬ったのではない。 俺とベルゼを繋ごうとしていた「空間の繋がり」そのものを、剣圧だけで強制的に切断したのだ。
「なっ……不発だと!?」
驚愕に目を見開く。 最強の剣神は、空間魔法すら物理で斬り伏せるというのか。
「小賢しい……!」
即断。 ダルクニクスが右手を大地へ叩きつける。
「全兵、退路を断て! 《滅の法》──【地龍の石爪壁(ドラグーン・ロック・フォート)】!」
地響きと共に、鋭利な爪のような巨大岩壁が天へ突き出し、退路を完全に封鎖する。 袋の鼠。 だが、ダルクニクスは油断しない。
「全兵、《滅の法》──【深紅の焔魔要塞(フォートレス・オブ・イグニス・クリムゾン)】展開! 魔弾を焼き尽くせ!」
銃士隊の防御結界の外側に、分厚い深紅の炎の幕が展開される。 二重の絶対防御。 ダルクニクスのライフル銃が火を噴く。 空間を「逆さ」にして弾道を逸らすが、魔弾の残弾は少ない。 息が上がる。 懐の魔弾は、最後の保険の二発のみ。
「終わりだ、ハーヴィー」
ダルクニクスが告げ、必殺の一撃が放たれる。 それを回避するため、最後の手段に手をかけようとした──その時。
全神経がダルクニクスへ注がれた、刹那。 死角より迸る、一条の閃光。
「《光の法》──【零煌一刃(ゼロ・ストライク・ザ・フレイム)】!」
空間魔法を斬り伏せたライザが、今度は本体を狙って、常識を超越した速度で空間を跳躍してきたのだ。 ダルクニクスの攻防すら、彼女にとっては最高の目くらましに過ぎない。 空間の歪みで接近を察知したが、反応が間に合わない。
閃光が、顔を薙いだ。
「ぐっ……!」
焼き付くような熱と衝撃。 左目から、光と血が激しく溢れ出し、視界の半分が永遠の闇に閉ざされる。
「兄さま!」
アーシェの悲痛な叫び。 駆け寄ろうとした彼女の首根っこを、ダルクニクスが無慈悲に掴んだ。
「動くな、アーシェ。貴様は良い盾となる」
絶望が二人を覆う。 だが、その中でアーシェの瞳が獣のように鋭く光った。
「──兄さまに、指一本触れさせない……!」
彼女は人質に取られたまま、最後の力を振り絞って魔力を解放する。
「《獣の法》──【神狼フェンリル召喚(ディヴァイン・ルプス・ロア)】!」
地響きと共に、ダルクニクスの背後の大地から、月光を吸い込んだかのような巨大な神狼フェンリルが咆哮を上げて出現した。 フェンリルは傷ついた俺を背に乗せると、地龍の石爪壁を軽々と飛び越え、闇の森へと疾走する。
残されたアーシェは、涙を流しながら、ただ静かに呟いた。
「お願い、兄さまを逃がして……」
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