名前のない場所に、母は立っている
電話が鳴ったのは、朝だった。
紬は、ミシンの前で手を止める。
この時間に鳴る電話は、あまり好きじゃない。
「……はい」
『久しぶりね』
女性の声。
少し高く、よく通る声。
その瞬間、紬の背中が強張った。
「……杉原、さん」
母の元で、営業を担当していた人だ。
明るく、社交的で、紬とは正反対の人。
『この前の展示、来てたって聞いたわ』
胸が、きゅっと縮む。
「……はい」
『よかった。ずっと引きこもってるって噂だったから』
悪意のない言葉が、いちばん刺さる。
『ねえ、そろそろ考えない?』
考える。
何を。
『ブランドの今後』
その言葉で、空気が変わった。
母が亡くなってから、誰も正面から言わなかった言葉。
『あなた一人で、全部抱えるのは無理よ』
「……分かっています」
『だったら』
少し、間。
『誰かと組みなさい』
紬は、無意識に、アトリエの奥を見る。
まだ眠っている、遥のいる場所。
『あなたのお母さんなら、そう言った』
母の名前を出されると、弱い。
「……考えます」
それが、精一杯だった。
電話を切ったあと、紬はしばらく動けなかった。
母なら、どうしただろう。
母なら、誰を選んだだろう。
——私は、選べているのか。
その日の午後、遥がやってきた。
制服姿で、少し疲れた顔。
「こんにちは」
「……こんにちは」
声が、少し硬い。
「どうかしましたか」
隠せない。
紬は、電話のことを話した。
ブランドのこと。
母のこと。
「誰かと組め」という言葉。
遥は、黙って聞いていた。
「……それで」
話し終えてから、遥が言う。
「紬さんは、どうしたいんですか」
核心だった。
「……分かりません」
正直な答え。
「母のブランドを、守りたい。でも」
遥を見る。
「母のやり方を、なぞるだけなら」
それは、自分じゃない。
「……私」
遥は、少し考えてから言う。
「服のことは、分かりません」
でも、と前置きして。
「紬さんの服は」
視線が、作業台の上の布に向く。
「お母さんの代わりじゃないと思います」
その言葉に、紬の胸が、熱くなる。
「でも」
遥は、続ける。
「外に出るなら」
少し、躊躇い。
「誰かを、切らなきゃいけない場面も、出てくると思います」
それは、残酷な現実だった。
ブランドを続けるなら。
人と組むなら。
責任が、増える。
「……遥さん」
紬は、静かに言う。
「もし」
喉が鳴る。
「私が、忙しくなって」
「はい」
「今みたいに、会えなくなったら」
言葉が、震える。
「……どうしますか」
遥は、すぐには答えなかった。
アトリエを見回す。
布。糸。ミシン。
ここで過ごした時間。
「……それでも」
遥は、言った。
「私は、ここに来ます」
即答ではない。
でも、迷いも少ない。
「会えなくても」
視線を、紬に戻す。
「いなくならない、って選択はできます」
それは、約束に近かった。
その夜、紬は一人で、母の古いノートを開いた。
デザイン画。
走り書きのメモ。
最後のページに、母の字でこう書いてある。
『服は、人を外に連れ出すもの』
紬は、その言葉をなぞる。
——私は、外に出られている?
——連れ出したい人が、いる。
その人を、
仕事のために、切れるだろうか。
答えは、まだ出ない。
でも、確かなことが一つだけあった。
もう、この物語は、
アトリエの中だけでは終わらない。
母の影と、現実と、未来が、
確実に、二人を引き離しに来ている。
それでも。
紬は、ミシンの電源を入れた。
逃げないために。
選ぶために。
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