触れないまま、選び続ける
その日は、雨が降っていた。
アトリエの窓を叩く雨音は、一定で、どこか安心する。
紬は、布の上にチョークで線を引きながら、その音に意識を預けていた。
遥は、作業台の端に座っている。
何かをするわけでもなく、スマートフォンを見るでもなく、ただ、そこにいる。
それが、もう当たり前になりつつあった。
「……今日は、学校どうでしたか」
紬が、沈黙に耐えきれずに聞く。
「普通です」
遥は笑う。
「普通すぎて、何も覚えてません」
それを聞いて、紬は少しだけ、羨ましいと思った。
「普通」が、存在している世界。
母が生きていた頃、アトリエはもっと賑やかだった。
取引先の電話。試着に来る人。納期の話。
でも今は、静かだ。
紬と、遥と、ミシンの音だけ。
「……私」
紬は、線を引く手を止める。
「高校を、やめたとき」
遥が、顔を上げる。
「後悔していません」
即答だった。
「ただ……」
言葉を探す。
「選択肢が、減りました」
母のブランドを継ぐ。
それ以外の未来を、考えないようにしてきた。
「遥さんは」
紬は、ゆっくり聞く。
「将来、何をしたいんですか」
遥は、一瞬黙った。
「……正直」
少し困ったように笑う。
「まだ、決めてません」
その答えは、予想外だった。
「決めなきゃ、とは思ってます」
「……それでいいと思います」
紬は、布を畳みながら言う。
「決めない、という選択も」
遥は、その言葉を噛みしめるように聞いていた。
雨が強くなる。
「今日は」
遥が言う。
「泊まってもいいですか」
紬の心臓が、跳ねる。
「……雨、強いので」
言い訳を足す遥。
でも、目は真剣だった。
「……はい」
断る理由は、なかった。
夜。
簡単な夕食を済ませ、アトリエの奥の小さなスペースで、それぞれ布団を敷く。
距離は、近い。
でも、触れない。
天井を見つめながら、紬は考える。
この距離が、怖い。
壊れそうで。
「……紬さん」
暗闇で、遥の声がする。
「私」
少し、間。
「ここに来るの、やめたほうがいいですか」
胸が、締めつけられる。
「……どうして」
「依存、してる気がして」
その言葉は、正しかった。
でも、残酷だった。
「私が」
紬は、ゆっくり言う。
「あなたに、依存しているなら」
喉が、乾く。
「……やめたほうが、いいと思います」
沈黙。
雨音だけが、続く。
「でも」
紬は、続けた。
「それでも、来てほしいと思っている自分がいます」
正直すぎる言葉。
遥が、息を吸う音が聞こえる。
「……それは」
「ずるいですよね」
先に、言ってしまう。
「あなたの時間を、奪っている」
母のブランド。
自分の世界。
そこに、遥を引きずり込んでいる。
「奪われてません」
遥の声は、はっきりしていた。
「私が、選んで来てます」
布団の上で、少しだけ身体が動く気配。
「紬さんが」
声が、近い。
「私を必要としてくれるなら」
触れない距離で、言う。
「私は、来ます」
その言葉に、紬の目から、静かに涙がこぼれた。
泣くつもりはなかった。
弱さを見せるつもりも。
でも、止まらなかった。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
遥の声は、優しい。
「今は」
少し間を置いて。
「触れなくても、いいです」
それは、約束だった。
「一緒に、ここにいるだけで」
十分だと。
紬は、布団の中で、小さくうなずく。
この関係は、
甘くも、残酷で、
簡単には名前をつけられない。
でも。
——もう、選んでしまった。
お互いに。
触れないまま、
それでも、確かに。
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