第13話 先輩と後輩の正しい距離

ヴァルキュリア・トレーニングアカデミーの朝。窓から差し込む冬の光は、鋭く冷たい。スタッフルームでの朝礼、グレンの声がいつも以上に低く、そして明瞭に響いた。


「ナツメ、今日は単独でサブアリーナの担当を任せる」


その一言に、周囲のスタッフからも微かな驚きの声が漏れた。新人であるナツメが、教官の補助なしで一区画を任されるのは異例の速さだ。


「……私、一人で、ですか」

「問題ない」


グレンは視線を資料に落としたまま、淡々と告げた。


「今のお前なら、一人で回せる。技術も、判断力も、すでに基準を満たしている」


それは、トレーナーとして最高級の信頼の証だった。前世の夏夢が、画面越しに最も欲していた「自立の許可」だ。けれど、今のナツメの胸に去来したのは、誇らしさよりも、足元から体温を奪われるような寂寞感だった。


「……了解しました、グレン教官」


ナツメはあえて「教官」と呼んだ。それが、彼が引いた「正しい距離」への、精一杯の応答だった。




サブアリーナは忙しかった。次々とやってくる志願兵たち。ナツメは一人で彼らのフォームをチェックし、負荷を調整し、鼓舞する。


「背中を丸めない! 視線は常に前方です!」

「あと三回。筋肉の声を聞いて、逃げないで!」


声は枯れることなく、的確に響く。これまでグレンの隣で、彼の呼吸を、筋肉の動かし方を、そして指導のタイミングを、誰よりも近くで「吸収バルクアップ」してきた成果だった。


(できてる……一人で、ちゃんと回せてる)


不意に視線を感じて顔を上げると、遠く離れたメインアリーナから、グレンがこちらを見ていた。彼は近づいてこない。以前のように、ナツメの背後に立って肩の位置を直すことも、耳元で呼吸の乱れを指摘することもない。ただ、彫刻のように不動の姿勢で、彼女の仕事を見守っている。その距離が、今の二人にとっての「正解」なのだと分かっている。


監視カメラの死角で触れ合った、あの一瞬の抱擁。あれが「私生活プライベート」の限界点。ホールの床の上では、二人はただの、優秀な先輩と有望な後輩でいなければならない。けれど、彼に褒められたいと願う心が、重いバーベルを持ち上げる時のように、胸を激しく圧迫した。




昼休憩。スタッフルームの隅で、ナツメは一人、冷めた弁当を口に運んでいた。隣の席は、空いている。以前なら、グレンが隣に座り、食事のタンパク質含有量を指摘したり、午後の注意点を短く話し合ったりしていた場所だ。


「……美味しいはずなんだけどな」


鶏胸肉の味を、舌が上手く捉えられない。成長するということは、誰かに頼らなくなるということだ。誰かに頼らなくなるということは、その人の「手」が離れていくということだ。


「ナツメ、一人でアリーナ回してたわね。凄いわよ」


アイナがやってきて、隣に座った。


「グレンもさ、あんなに嬉しそうな顔して見守ってるんだから、もっと自信持ちなさいよ」

「……嬉しそうな、顔?」

「ええ。自分の一部が自立した親みたいな、あるいは、自慢の教え子が羽ばたいた瞬間を見届けたみたいな……そんな、ちょっと複雑で、でも満足げな顔」


ナツメは箸を置いた。誇りに思ってくれている。それは分かる。でも、私が欲しいのは「教え子の成長を喜ぶ顔」だけじゃない。一人の女性として、彼の隣にいたいのだ。


「恋人として、隣にいたい」


そう願うことが、トレーナーとしての自立を妨げる「ノイズ」のように思えて、ナツメは自分を責めた。




業務終了のチャイムが鳴り、会員たちが去っていく。静まり返ったホールで、ナツメは器具の消毒を終え、最後の一歩を踏み出した。


「……先輩」


メンテナンス中のグレンの背中に、声をかける。彼はゆっくりと振り返った。


「今日の指導。……どうでしたか」


グレンは数秒、ナツメの目を見つめた。


「問題ない。期待以上だ。……お前はもう、俺の補助なしで十分にやっていける」

「……それだけ、ですか」


声が、自分でも驚くほど震えた。グレンは眉を寄せ、微かに戸惑いの色を見せる。


「他に、何か必要か。技術的なフィードバックなら……」

「違います!」


ナツメは一歩、詰め寄った。


「私は……一人前になりたいです。でも、一人前になったら、もうあなたの隣にはいられないんですか? 教えてもらうことも、支えてもらうことも、無くなってしまうんですか?」


ホールの沈黙が、重くのしかかる。グレンは持っていたオイル差しを置き、ゆっくりと腕を組んだ。


「……ナツメ。後輩が先輩の背を追うのは、いつか追い越すためだ。……お前が一人前になることは、俺の望みだ」

「でも、私は寂しいです」


ナツメは唇を噛んだ。


「あなたが遠くにいるのが、耐えられない」


グレンは深く、重い溜息をついた。そして、周囲に誰もいないことを確認すると、一歩だけナツメに歩み寄った。触れ合うほどの距離ではない。けれど、彼の熱が届く距離。


「……ナツメ。勘違いするな」


彼の声が、いつになく熱を帯びて低くなった。


「隣にいられないのではない。……同じ視線で、同じ高さに立とうとしているんだ。指導する側とされる側ではなく、肩を並べて戦うパートナーとして」

「パートナー……」

「そうだ。お前が一人前にならなければ、私はお前を、俺の隣に『対等な人間』として置くことができない。……俺がどれほど、お前と同じ重さを背負って歩ける日を待ちわびているか、お前には分からないだろう」




ナツメは、目を見開いた。彼は突き放していたのではない。自分と同じ高さを目指してくるナツメを、最高の敬意を持って待っていたのだ。


「……追いつきます」


ナツメは涙を拭い、真っ直ぐに彼を見つめた。


「ただの後輩じゃなくて、あなたの隣にいても恥ずかしくない、最高のトレーナーになってみせます。だから……」

「ああ。……待っている」


グレンは一瞬だけ、誰にも見せないような、優しく、そして深い情愛を湛えた眼差しを向けた。それは、どんな熱い抱擁よりも、ナツメの心を強く、逞しく「バルクアップ」させた。


ナツメはロッカーに入り、ベンチに腰を下ろした。もう、タオルで顔を覆う必要はなかった。一人前であることと、恋人であること。その二つの道は、分かれているのではなく、いつか一つの「信頼」という頂上で重なるのだと、今は確信できる。


「……よし」


明日も、立つ。誰の補助も受けず、自分の足で。その先に待っている、彼と同じ景色を見るために。筋肉は嘘をつかない。そして、彼への想いも、決して自分を裏切らない。ナツメは、自分の引き締まった腕をそっと抱きしめ、心地よい疲労感と共に立ち上がった。

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