第16話 “普通はさ”は規程違反——佐伯、常識を凍結する


オフィス・午前

午前11時。

フロアには、

微妙なざわめきが漂っている。

昼前。

集中力が切れ始める時間。

田中の席

田中は、

修正済みの資料をモニターに映していた。

田中・心の声

(……よし)

(今度は、

 言われた通り

 直したぞ)

佐藤課長、資料を覗き込む

佐藤課長

「うん……」

佐藤課長

「まあ、悪くない」

田中

「ありがとうございます」

一拍

佐藤課長

「でもさ」

田中

「……はい」

佐藤課長

「普通は、

 ここもう少し

 空気読むよね」

田中・心の声

(……普通)

(また来た)

(何が……?

 どこが……?)

田中

「……具体的には、

 どの点でしょうか」

佐藤課長、少し笑う

佐藤課長

「いやいや」

佐藤課長

「感覚的な話だよ」

数席離れたところ

佐伯ミナが、

静かにペンを止めた。

メモ

11:07

修正指示

主語:普通

定義:不明

根拠:感覚

佐伯、立ち上がる

佐藤課長の席

佐伯

「佐藤課長」

佐藤課長

「お、どうした?」

佐伯

「先ほどのご指示について、

 確認させてください」

佐藤課長

「……また?」

佐伯

「“普通は”という表現です」

佐藤課長

「別に、

 おかしくないだろ」

佐伯

「確認です」

佐伯

「“普通”とは、

 誰を基準にしていますか」

一拍

佐藤課長

「……一般的な」

佐伯

「一般とは、

 どの集団ですか」

佐藤課長

「……社会人?」

佐伯

「年齢、

 業界、

 職種は」

佐藤課長、言葉に詰まる

佐藤課長

「……細かいな」

佐伯、淡々

佐伯

「いいえ」

佐伯

「“普通”は、

 業務基準として

 使用できません」

田中・心の声

(……言った)

(でも、

 確かに……)

佐藤課長

「常識ってあるだろ」

佐伯

「常識は、

 規程に明文化されて

 初めて有効です」

決定的な一言

佐伯

「定義できない“普通”は、

 評価基準として

 不適切です」

フロアの空気が固まる。

誰かが、

無意識にキーボードを叩く。

佐藤課長、ため息

佐藤課長

「……じゃあ、

 どう言えばいい?」

佐伯

「こうです」

佐伯

「“私は、

 この表現が

 読み手に伝わりにくいと感じました”」

佐伯

「それなら、

 理由も修正方向も

 共有できます」

佐藤課長、ゆっくり頷く

佐藤課長

「……なるほど」

佐藤課長、田中へ

佐藤課長

「田中」

佐藤課長

「俺は、

 ここが少し

 分かりづらいと思った」

田中

「……はい」

佐藤課長

「だから、

 もう一段、

 説明を足してほしい」

田中・心の声

(……分かる)

(普通、

 じゃない)

(ちゃんと、

 分かる……)

佐伯、席に戻る。

何も言わない。

ただ、

メモを一行追加した。

メモ

11:14

“普通”使用停止

基準:個人の意見へ変換

業務影響:改善


田中・ナレーション

この日、

僕は知った。

“普通”に従えない自分が、

劣っているわけじゃない。

普通を説明しない側が、

仕事を放棄していたんだ。 


ナレーション

――ここは、コミュニケーション許可局。

「普通はさ」という言葉は、

説明を省略するために使われる。

だがその省略は、

相手に判断を丸投げする。

誰の普通なのか。

どの集団の常識なのか。

いつから有効なのか。

それが定義されていない限り、

“普通”は基準にならない。

佐伯ミナは、

常識を否定しない。

ただ、

業務で使えないものを

一時停止する。

説明できない基準は、

評価に使えない。

感覚でしか語れない指示は、

是正対象になる。

だから彼女は、

問いを置く。

誰の判断か。

どこが問題か。

どう直せばいいのか。

それが言語化されるまで、

“普通”は凍結される。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、

常識を壊したのではない。

仕事として使える形に

変換するまで、

棚に戻しただけだった。

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