瑠璃色の孵化
猫小路葵
【お題フェス11】第1話 叔父が遺した家政婦
「これは龍の卵だからね。人間はけっして触っちゃいけないよ」
叔父がそう言ったのを、
その叔父が死んだ。
独り暮らしだった叔父は、庭で倒れていた。
穣は元気だった頃の叔父を思い浮かべ、今では珍しくなった数寄屋門の戸を開けて、中に入った。
そんな叔父だったが、なぜか穣とは馬が合い、ここにもよく呼んでもらった。叔父は穣に、庭の植物や趣味のカメラのこと、面白かった本のことなど、静かだが楽しい語り口で聞かせてくれた。今思えば当時の叔父はまだ二十代だったが、実年齢よりも落ち着いて見えた。
穣は、回りまわって叔父の家を継ぐことになった。昭和の日本家屋への憧れもあった。いずれ改修を施し、ここで自分の家庭を築けたらいいなと(相手はいないが)夢を描いてもいた。
荷物を置いて、まずは仏壇に向かった。叔父の死後、誰も世話をしていなかったはずだ。埃を拭いたが、幸い殆ど汚れはなかった。
仏壇には複数の遺影が置かれている。遺伝なのだろうか。一族の男は皆、枯れた隠者のような目をしていた。穣はそこに叔父の写真を並べた。同じ目をした叔父は、その場所に静かに馴染んだ。穣は厳かにりんを鳴らし、手を合わせた。
――
穣は、庭に下りてみた。昔ながらの庭だ。松に
葉の形が「龍の
そしてリュウノヒゲにはもう一つ、忘れてはならない特長があった。穣はその場に片膝をつき、繁茂する髭をそっと掻き分けた。思った通り、そこには小さな
葉陰に隠れるように、その宝石はある。初めて見たときは衝撃だった。こんなきれいな実があるのかと、穣は見とれた。そんな穣に叔父は言った。
「これは龍の卵だからね。人間はけっして触っちゃいけないよ」
それは、子供が実を荒らさないよう戒める作り話だとわかった。でもひょっとしたら本当かもしれない――少年の穣にちらりとそう思わせるほど、リュウノヒゲの実は美しかった。
「触ったらどうなるの?」
「さあ、どうなるのかな。俺にもわからん」
懐かしい思い出だ。そのとき、背後から声をかけられた。
「あの……」
誰もいないはずの家。穣は一瞬心臓が跳ねた。振り向くと、一人の若い女性が立っていた。
「驚かせてすみません。あの……穂積さんの甥御さんでしょうか?」
「あ、はい」
穣は立ち上がり、そう答えた。女性の口振りから叔父の知り合いらしかった。白い肌と長い髪が印象的なひとだった。今度は穣が彼女に尋ねた。
「あの、失礼ですがあなたは……」
女性は「申し遅れました」と頭を下げた。「わたしは、こちらで家政婦をしておりました、
穣は驚いた。
たしかに過去この家には通いの家政婦さんがいたことはある。たまに年配の主婦を短期間パートで雇い、人嫌いの叔父は深く関わることもなく、淡々と家事だけを任せていた。けれど近年はそれもなくなり、叔父は完全な独居だと思っていた。しかもこんな若い人を雇うなんて意外だった。
「初めて聞きました、そんなこと」
「穂積さんは伏せてらっしゃいましたから。まわりからあれこれ詮索されたら嫌だからと……」
なるほど。叔父らしいと穣は思った。独身で変わり者の叔父の元に若い女性が通っているとなれば、親戚連中は放っておかないだろう。賢明な判断だったかもしれない。
「穂積さんとわたしが写っている写真です」
証拠のつもりだろう。瑠璃はそう言って何枚かの写真を穣に差し出した。
三脚を使って叔父のカメラで撮ったのか。画質に味がある。庭に並んで微笑む二人や縁側に腰掛けた二人。瑠璃が一人で写ったものもあった。カメラを構える叔父に向けた瑠璃の表情は、少しはにかんで、やさしい微笑みを浮かべていた。
穣は写真を瑠璃に返すと、言った。
「立ち話も何ですから、中に入りましょう。どうぞ」
穣が促すと、瑠璃は「はい」と返事をして穣に従った。
「瑠璃さんは、いつからこちらに?」
二人はダイニングで向かい合わせに座った。テーブルには熱い茶が置かれている。瑠璃が淹れてくれたものだ。穣は「俺がやりますよ」と言ったのだが、さらりと笑顔でかわされた。折角なので、瑠璃が茶を淹れる様子を穣は観察した。瑠璃に無駄な動作はなかった。瑠璃はこの台所を使い慣れている。どこに何がしまってあるのか熟知している者の動きだった。
「さあ、どのくらいでしょうか……もう随分になります」
瑠璃が湯呑を口もとに持っていった。口紅をつけているのかいないのか、瑠璃の唇は薄桃色だった。年齢はいくつだろうか。聞くのは失礼に思えたので確かめなかった。
「穂積さんが亡くなったのは、ちょうどわたしがお休みをいただいたときでした。まさかこんな急に亡くなるなんて……」
瑠璃は辛そうに目を伏せた。
「肝心なときにお役に立てず、申し訳ありません」
「そんなの瑠璃さんのせいじゃありませんよ。謝らないでください」
穣は言ったが、瑠璃は黙って首を横に振った。
「あの、それでわたし……穣さんに言わなければいけないことがあって……」
瑠璃は遠慮がちに言葉を継いだ。
「わたしは穂積さんから離れをお借りしていました。じつは今もそこにいるんです。穂積さんが突然あんなことになって、他に行くあてがなくて……」
穣は思わず「え」と返した。「そうなんですか?」
瑠璃は「すみません」と頭を下げて、穣に言った。
「図々しいのは承知でお願いがあります。あと少しの間こちらに置いていただけないでしょうか。次の仕事が決まったら、すぐに出ていきます」
穣はしばらく、どうしようかと考えた。前もって聞いていたならまだしも、急に言われて戸惑っていた。
「……とりあえず、瑠璃さんの部屋を見せてもらえますか」
部屋を見れば人柄がわかる――穣は普段からそう考えていた。
今日初めて会った女性の部屋だが、この場合正当な申し出だろうと穣は思った。二人して離れへ向かう。そうして瑠璃が戸を開けると、そこにあったのはすっきりと片付いた部屋だった。わずかな身の回りの品がきちんと整頓されて、塵一つないほどの清潔さだった。
穣は、埃のない仏壇を思い返した。
「仏壇をきれいにしてくださってたのも、瑠璃さんですか?」
瑠璃は控えめに「はい」と頷いた。
「穂積さんが、お帰りになる場所ですから」
そして、細い指先で目元をそっと押さえた。これ見よがしに泣いたりするのではなく、むしろ涙を隠す仕草に好感が持てた。穣は決めた。
「わかりました。じゃあとりあえず、次の仕事が見つかるまでは、いてもらって構いません」
瑠璃が、はっと顔を上げた。
「よろしいんですか?」
「ええ。ただし、僕が『合わない』と判断したら即終了です。それは瑠璃さんも同様です。お互いに様子を見ながら始めましょう。それでいかがですか?」
こうして、穣は瑠璃との共同生活をスタートさせた。
二人で仏壇に手を合わせ、事の成り行きを報告した。隣を見ると、静かに目を閉じた瑠璃の横顔があった。
実際のところ叔父と瑠璃がどういう関係だったのか、穣に詮索する気はなかった。けれど、なんとなく想像はしてみる。さっきの写真の二人が浮かんだ。
この家で、叔父は瑠璃さんとどんな毎日を過ごしていたのだろうか。物静かな叔父だったが、たまには冗談のひとつも言って瑠璃を笑わせたりしただろうか。そんな話を聞いてみたかったけれど、叔父はもういない。
「穣さんのことは、穂積さんからいつも聞いていました」
瑠璃が叔父の遺影を見つめ、静かに語った。
「穂積さん、穣さんのお話をするときはとても楽しそうで……」
だから穣さんがここに住むこと、穂積さんはきっと喜んでおられると思います――瑠璃はそう言って、叔父の遺影に微笑みを浮かべた。
廊下を戻るとき、瑠璃が穣に問いかけた。
「穣さん、今日のお夕飯は何にしましょうか」
叔父にもこんな風にたずねたのだろうかと、穣は思った。
瑠璃は、毎朝穣が仏壇の水をかえるとき、一緒に手を合わせた。穣の少し後ろで正座をし、手を合わせて目を閉じる。
「おはようございます」
穣に続いて瑠璃も「おはようございます」と口にする。一日の始まりを告げる、二人の朝の習慣になった。
瑠璃には叔父のときと同じく、家事全般をお願いした。
瑠璃の料理は絶品だった。何を食べても美味しかった。穣は一度瑠璃に聞いてみた。
「これどうやって作ったの?」
瑠璃は笑って、「男の人は知らなくていいんです」と冗談めかして答えた。瑠璃は家政婦だから、いわゆる企業秘密というわけだ。そう簡単には教えられないらしい。
「男は知らなくていいなんて古風なこと言うね。瑠璃さんいくつなの?」
この機に乗じて軽い調子で聞いてみた。瑠璃はさらりと「来年で二千八百歳です」と答えた。そうか、二十八歳か――穣はそう笑い飛ばそうとして、ふと喉が詰まりそうになった。
「穣さん?」
瑠璃の瞳が電灯の下でわずかに発光したように見えた。それは単なる光の反射ではなく、何やら底知れない透明感を持っていた。
「どうかしましたか?」
瑠璃は微笑んだ。笑い方に癖があり、下のまぶたがきゅうっと上がった。
今のは二十八歳って意味だよね?――穣は笑って聞こうとしたが、彼女の眼差しがそれ以上の質問を拒んでいるように見えた。
瑠璃は掃除も得意だった。
届かないはずの天井や鴨居まで、普段からいつも清潔だった。
「瑠璃さん、高い所はどうやって掃除してるの?」
「男の人は知らなくていいんです」
瑠璃は今度もはぐらかしたので、穣もつい軽口を叩いた。
「瑠璃さん、もしかして空中浮遊ができたりして」
ハタキを手に、宙に浮かんで埃を払う瑠璃を想像した。すると瑠璃が振り向いて穣を見た。瑠璃の瞳が冷たく光ったように見えた。まるで蛇にでも睨まれたような気がして穣は黙ったが、瑠璃がすぐに「いやだ、穣さんたら」と笑ったので安堵した。瑠璃は微笑んで、「できるかもしれませんね」と言った。
年越し蕎麦を二人で食べて、正月を迎えた。
初詣に行こうと玄関を出ると、瑠璃がとても寒そうにした。
「瑠璃さん、これ着な」
穣は自分のダウンのコートを渡した。瑠璃は遠慮したが、瑠璃の手が触れたとき、あまりの冷たさに穣は驚いた。まるで生きていないみたいだった。これはいけないと焦り、穣は無理やり着せた。
「あったかい……」
瑠璃がそう言ったので穣はほっとした。
「今日はやめとこう。もっと暖かい日に行けばいいよ」
瑠璃は素直に頷いた。
「すみません……」
瑠璃は体温調節が苦手らしかった。
二月の声を聞く頃に、雪が積もった。
庭は一面銀世界になった。松も山茶花も、ひと月遅れのクリスマスツリーのようだった。リュウノヒゲは雪に埋もれてしまい、よく見えなかった。
「穣さん、ほら、こんなに積もりましたよ」
瑠璃は雪にはしゃいだ。
「とってもきれい……」
寒さに弱いくせに瑠璃は雪を触りたがった。雪で遊んだ指先が、かじかんで真っ赤になった。穣が両手で包んでやると、瑠璃は気持ちよさそうに目を細めた。下のまぶたがきゅうっと上がった。
瑠璃のこの表情癖はどことなく爬虫類を思わせたが、穣に嫌悪感はなかった。むしろじっと見てしまう。独特なまぶたの動きに、穣はいつも吸い寄せられた。
そして、出会ってひと月ほどたったある日。
「ただいま」
穣が帰宅すると、瑠璃がいつものように小走りで玄関まで来た。
「おかえりなさい」
「そんなに急いで来なくていいって、いつも言ってるのに」
穣が笑うと、瑠璃も恥ずかしそうに笑った。そんな瑠璃に、穣はデパートの紙袋を差し出した。
「はい、これ」
瑠璃は、単純に主人の荷物を預かる顔で受け取った。
「それ、瑠璃さんに」
穣の言葉に瑠璃は驚いた。紙袋には包装紙で包まれた箱が入っていた。
「開けてみて」
瑠璃が包みを解くと、エプロンが入っていた。穣は瑠璃に新しいエプロンを買ってきたのだった。
「穣さん、これは……」
「これは『今までありがとう』の気持ちだよ」
それを聞いた瑠璃の表情が曇った。穣からの「餞別」だと捉えたのだろう。
「瑠璃さん、次の仕事は見つかりそう?」
瑠璃は気まずそうに俯いた。
「いえ……まだ……」
「そっか」
穣は安心したように言って、言葉を継いだ。
「じゃあ、もしよかったら……これからもうちで働いてもらうことはできるかな」
瑠璃が顔を上げた。
そして、ぱっと眩しいような笑顔になって、「はい。もちろんです」と大きく頷いた。
瑠璃の返事を聞いた穣は、わざと「気をつけ」をして九十度のお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
瑠璃も穣の真似をした。
「よろしくお願いします」
二人して玄関で笑った。
今日までの間、瑠璃が次の働き口を探している様子はなかった。穣はそのことに早くから気づいていたが、あえて知らないふりをしていた。
瑠璃が次を探さない理由は何なのか。穣は、恐らく瑠璃は叔父のそばにいたいのではないかと考えていた。それならそれで構わないと、穣は思った。いずれにしても、穣と瑠璃にとって二度目の始まりの日になった。
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