第三章 【辺境の英雄】:記憶なき主役を再起動せよ

王都グランセルの重厚な城壁が、雨に霞んで遠ざかっていく。 俺とエルナは、俺が第4章の脱出経路として設定していた「商人用の秘密通路」を使い、王都を後にしていた。


「……カズ様、本当に行かれるのですか? その、『アルス』という方がいるという、北の果ての村へ」


エルナが不安げに尋ねる。彼女の瞳には、俺という存在への畏怖と、かすかな期待が混じり合っていた。無理もない。モブ同然の男が、世界の理を書き換えて自分を救ったのだから。


「ああ。あいつが動かない限り、この世界は中盤で『確定した終焉』を迎える。物語を動かすには、主役(パーツ)が必要なんだ」


俺は地図を広げた。白紙に近い、粗末な地図。だが俺の脳内には、高解像度の3Dマップが展開されている。 目指すは辺境の村『ルーフェン』。そこは、俺が「最強の主人公を誕生させるためだけに用意した、何の変哲もない始まりの場所」だ。


道中、俺たちは幾度となく野盗や低級モンスターに襲われた。 本来ならレベル1のカズには死刑宣告に等しい遭遇。だが。


「……設定変更(リライト)。その野盗たちが握っているのは、研がれた鋼ではない。ただの『よくしなる乾燥したゴボウ』だ」


【オーバーライド:承認。対象の質感を再定義します】


「なっ、なんだこの棒切れは!?」 振り下ろされた「剣」が、俺の肩でパキリと情けなく折れる。


「さらに、この一帯の重力は、奴らの足元だけ三倍に増加する!」


ドサリ、と野盗たちが泥濘に這いつくばる。俺はその横を、一瞥もくれずに通り過ぎる。 これが作者権限(オーバーライド)。設定の穴を突き、因果をねじ曲げる全能の力だ。 中盤まで――つまり、俺が詳細なプロットを投稿サイトのバックアップに残している「第150章」付近までの内容であれば、俺はこの世界の神として君臨できる。


だが、この万能感に酔いしれることはできない。 この力が通用するのは、あくまで「設定が存在する範囲内」だけなのだ。


数日の強行軍の末、俺たちは霧に包まれた小さな村、ルーフェンに辿り着いた。 そこは、あまりにも静かだった。物語の始まりを告げる活気も、旅立ちを祝う喧騒もない。


「……いた」


村の中央、古びた井戸の縁に、一人の青年が座り込んでいた。 銀色の髪、しなやかだが強靭な肉体、そして傍らに立てかけられた、目も眩むような白銀の聖剣。 間違いなく、俺が創造した史上最強の主人公――アルスだ。


しかし、その瞳には光がなかった。 ただぼんやりと、濁った空を見上げ、口を半開きにしている。


「おい、アルス! 何をしている、お前の出番はもう始まっているんだぞ!」


俺は彼の肩を掴んで激しく揺さぶった。だが、アルスは力なく首を傾げるだけだった。


「……アルス? それは、僕の名前なのかい? ……僕は、ここで何をすればいいんだろう。何も、思い出せないんだ。何をしたいのかも、どこへ行けばいいのかも……」


背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。 ひどすぎる。あまりにもひどい。 俺は第1話のあらすじにこう書いた。 『記憶を失った青年・アルスは、突き動かされるような衝動に従い、聖剣を手に村を出た』


だが、現実となったこの世界において、「突き動かされるような衝動」という抽象的な記述だけでは、彼を動かすには不十分だったのだ。具体的な動機、明確な目的、愛する者の喪失……そういった「熱」を俺が書き込まなかったせいで、彼は魂の入っていない空っぽの人形(デッド・ストック)と化していた。


「君が……この方が、世界を救う英雄なのですか?」 エルナが悲しげにアルスを見つめる。


「ああ、そのはずだった。俺が……俺が、あいつを動かすための『理由』をサボらなければ!」


俺は拳を地面に叩きつけた。 作者としての傲慢さが、一人の人間の人生を、世界そのものをフリーズさせている。 その時、村の入り口から不穏な咆哮が響いた。


霧を切り裂き現れたのは、巨大な二足歩行の狼――ガルム。 本来、アルスが村を出る直前に「一撃で屠り、覚醒のきっかけにするはずだった」イベント用のモンスターだ。


「グルアアアアッ!」


飢えた獣が、無抵抗なアルスに牙を剥く。 アルスは逃げようともせず、ただ怯えた子供のように身を竦めた。


「逃げて、アルス様!」 エルナが叫び、祈りの障壁を張ろうとする。だが、彼女の力はまだ未熟だ。


(考えろ、天界院・L・カオス! この状況をどう書き換える!?)


俺はウィンドウを狂ったように操作した。 だが、【介入権限:20%】。ガルムの存在自体を消すには出力が足りない。


「……なら、設定を『付与』してやる」


俺はアルスの聖剣に手を触れた。 「聖剣エクセリオン……。この剣は、持ち主の危機に反応するのではない。――持ち主の『深層心理にある後悔』を糧に、強制的に肉体を駆動させる暗黒の術式が組み込まれている!」


【警告:設定の新規追加(アペンド)を検知。因果律への不可逆な干渉を開始します】


「ぐ、ああああああっ!?」


アルスが悲鳴を上げた。 白銀だった聖剣が、禍々しい紫色の光を放ち、アルスの腕に血管のような触手を伸ばして一体化していく。


「動け……動け、アルス! お前の物語は、俺が無理矢理にでも回してやる!」


光が爆発した。 次の瞬間、ガルムの巨大な体躯が、十文字の閃光によって一瞬で八つ裂きにされた。 返り血を浴びて立ち尽くすアルス。その瞳には、意思ではなく、呪いのような「強制力」の光が宿っていた。


「……あ……あぁ……。体が、勝手に……」


ガチガチと歯を鳴らしながら、アルスは聖剣に引きずられるように一歩を踏み出した。 それは英雄の旅立ちなどではない。作者という名の傀儡師による、残酷な舞台の開演だった。


「これでいい……。これで、物語は進む……」


俺は震える手で、返り血を拭った。 中盤までの無双は約束された。だが、アルスの瞳に宿った憎悪に近い視線が、俺を射抜いた。 俺は気づき始めていた。 「物語を完結させる」という俺の目的が、この世界の住人にとって、救いではなく「神への反逆」を招く引き金になるかもしれないことに。

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