第1話 戻る場所
勇者になった日のことは、よく覚えていない。
鐘が鳴って、手の甲が光って、世界が沸いた。流れに押されるまま、旅に出た。
季節が一度巡るくらいには歩いた。
森で野営して、雨に濡れて、町のパンの味に救われて、ダンジョンの息苦しさに慣れていく。
傷が増えて、笑い方が増えて、呼吸の合わせ方が揃っていった。
レオは、いつも一歩早い。
ミレイアは、黙って俺の背中を守る。
フィオナは、笑ってるくせに手だけは正確だ。
いつの間にか、声を荒げなくても通じるようになっていた。
眠る直前に、いつも同じ動きが浮かぶ。
魔王の手。指が閉じる。次の瞬間、内側が弾ける。
夢だと言い聞かせても、夢より鮮明だった。
魔王城は黒かった。
霧がまとわりつく。空気が重い。足音が吸われる。
階段の段数を、なぜか俺は知っている気がした。
徐々に、敵の数が増える。
「クロノス!」
レオが血のついた額で笑う。
「上は任せた! 俺たちは下を抑える!」
ミレイアが盾を構える。フィオナが短く祈る。
俺は頷いた。
「死ぬなよ」
レオが言った。
「……死なない」
言い切る声が、妙に乾いていた。
最上階の扉を押し開けた瞬間、胸が冷えた。
黒曜の床。欠けた柱。溶けた彫刻。
この景色を、俺は知っている。
玉座の前に、魔王が立っていた。
裂けた外套。片目の血。崩れない姿勢。静かな目。
「……ここまでか、勇者」
俺は剣を構えた。
刃先に光を集め――光が、ふっと薄くなる。
「……っ」
階下から、遠い衝撃音が響く。仲間が戦っている。俺はここで止まれない。
「来い」
魔王が言った。
その言い方が、変だった。
「……お前、俺を殺せるだろ」
自分でも驚くような、言葉が出た。
魔王の目が、ほんの少し揺れる。
「殺せる」
「じゃあなんで――」
「来い」
二度目は、少しだけ強かった。
魔王が、構えを変える。
片手を前に出し、空間を握り潰すように指を閉じた。
ぞわり、と背骨が鳴った。
「やめろ!」
俺は踏み込む。間に合わない。
内側が弾ける。
心臓が裏返る。肺が縮む。視界が上下反転する。
(また――)
そう思ったところで、音が途切れた。
声も、呼吸も、石のきしみも。
世界が途中で終わる。
色が抜ける。
熱が消える。
痛みだけが残る。
そして――意識が落ちた。
眩しさで目を開ける。
青空。白い石畳。噴水。旗。歓声。
「勇者さま! あなたが、勇者です!」
神官が俺の手を掲げる。手の甲の紋章が、金色に光っている。
……戻された。
俺は息を吸った。吸えてしまう。
(ここだ)
勇者として選ばれた瞬間。
ここに引き戻される。
俺は手の甲を見つめた。光は何も答えない。
魔王は俺を殺せる。
でも、殺さない。
鐘が鳴る。
祝福の音のはずなのに、重い。
俺は唇を噛んだ。
(次は……止める)
答えは出ない。
ただ、指が閉じる動きだけが焼き付いている。
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