第13話「大事なお守り」

 家に戻ると、何事もなかったかのように母さんが食後の片付けをしていた。  父さんの服のボロボロな具合や、肩に巻いている包帯、俺が背負っていた空気の重さに気づかないはずはないのに、彼女はただ柔らかく微笑んでいる。


「母さん、俺……旅に出るよ。父さんから世界の話を聞いたら、自分の足で確かめたくなっちゃって」


 俺の言葉に、母さんは手を止めてこちらを向いた。寂しそうな色はなく、どこか誇らしげな、慈愛に満ちた瞳だ。


「そう。アルデルならいつかそう言うと思っていたわ。……ちょっと待っててね」


 母さんは奥の部屋から、小さな青い石がついたペンダントを持ってくると、俺の首にそっとかけてくれた。


「これは私からのお守りよ。……危ない時には、きっとこれがあなたを守ってくれるから」


 母さんが俺の胸元に手を添えると、石がほんのりと温かくなった。


(……不思議な感覚だ。ステータスが上がるわけじゃないのに、心の奥底がどっしりと落ち着くような……)


 父さんが「天災」なら、母さんは「平穏」そのものだ。ガンスが言っていた『器』としての強大な力は、今はこうして俺を慈しむためだけに使われている。この温もりが消えない限り、俺はどんな過酷な道でも自分を見失わずに歩ける気がした。


「ありがとう、母さん。……大事にするよ」


「ええ。疲れたらいつでも帰ってきなさい。あなたの席は、ずっとここにあるんだから」


 玄関先。父さんは腕組みをしながら、わざとらしく空を見上げていた。


「いいかアルデル。……グレイの野郎が言ったことは気にするな。あいつは昔から大げさなんだ。自分のペースで歩けばいい。……ただし、母さんを泣かせるような真似だけはするなよ」


「わかってるって。父さんも、あんまり母さんに迷惑かけるなよ」


 俺は『地殻の踏破者』の紐を一度だけ締め直し、大きく息を吸い込んだ。


「……じゃあ、行ってくる!」


 俺が地を蹴った瞬間、景色が線となって背後へ流れた。  母さんのお守りの温かさを胸に、俺の足はこれまでにないほど軽やかに、そして力強く地面を捉える。


 村の入り口、懐かしい景色が瞬く間に遠ざかっていく。目指すは王都、そしてその先にある広い世界。


 俺の『究極の散歩』が、今、本当の意味で始まった。


(とりあえず、目指すべきは王都か..)


 村を出て数時間が経過した。  普通の旅人なら数日はかかるであろう距離を、俺は鼻歌交じりのジョギングで駆け抜けていた。


 驚いたのは、ガンスの靴『地殻の踏破者』の安定感だ。  未舗装のデコボコ道だろうが、ぬかるんだ湿地だろうが、足裏が地面に触れた瞬間に「最適」な反発力を生み出してくれる。まるで世界中の道が、俺を歩かせるために用意されたレッドカーペットになった気分だ。


(……時速300キロ。前世の新幹線並みか。これでもまだ『散歩』の範疇なんだから恐ろしいな)


 ふと、街道の先に大きな影が見えた。    ――グォオン!


 それは、街道を塞ぐように居座る巨大な魔物、『アースベア』だった。立ち上がれば5メートルはあろうかという巨体。このあたりの新米冒険者にとっては、間違いなく「死」を意味する災害級の個体だ。


 普通なら、隠れるか、死力を尽くして戦う場面。  だが、俺のギアは一段階上がったままだった。


「悪いな、急いでるんだ。……ちょっと横を通るぞ」


 熊が俺に気づき、その巨大な腕を振り下ろそうとした――その瞬間には、俺は奴の背後にいた。  戦う必要すらない。奴の動体視力では、俺はただの「一陣の風」にしか見えなかっただろう。

 風圧だけで熊の巨体がよろけ、奴が困惑して周囲を見渡している頃には、俺はもう地平線の彼方だ。


(……あ、今のステップ。母さんのお守りが一瞬、スッと冷たくなった気がしたな)


 激しい加速の中でも、胸元の石は不思議な静寂を保っている。それが、俺がどれだけ無茶な速度を出しても「道を踏み外さない」ためのアンカーになっているようだった。


 やがて、平原の向こうに巨大な城壁が見えてきた。  空を突くような尖塔、幾重にも重なる重厚な防壁。この国の中心にして、父さんとグレイがかつて駆け抜けた始まりの場所。


「王都『セントラル』……」


 巨大な城壁が目の前に迫る。  普通の旅人なら門番の前で足を止め、通行証を提示するために長い列に並ぶところだ。だが、今の俺に「静止」という選択肢はない。


(……この速度で急停止したら、慣性で門ごとブチ抜いちゃうな)


 俺は時速300キロの勢いを殺さぬまま、門の脇にある垂直の「城壁」へと視線を向けた。


「……よし、ちょっと壁を散歩してくるか」


 俺は速度を落とすどころか、さらに足裏に力を込めた。『地殻の踏破者』が城壁の石材を完璧に捉え、重力を無視して90度の壁面を駆け上がる。


「な、なんだ!? 影が壁を登って――」 「鳥か? いや、人間だぞ!?」


 下で見張っていた門番たちの驚愕の声を置き去りに、俺は一気に城壁の頂上、高度50メートル地点を通過。そのまま王都の内部へと向かってダイブした。


 空中で一歩。空気を蹴って落下の衝撃を相殺し、俺は貴族街の裏路地へと「ふわり」と着地した。


「ふぅ。……列に並ぶより、こっちの方が効率的だな」


 俺が新しい靴を軽く叩いて汚れを落としていると、ふと胸元のペンダントが微かに震えた。  母さんのお守り。  どうやら「不法侵入で捕まる」というリスクを、お守りなりに警告してくれたらしい。


「わかってるって。……さて、まずはギルドを探すか」


 俺は路地裏から表通りへと足を踏み出した。  そこは、これまでの村やグラドの町とは比較にならないほどの活気と、そして「理不尽」が渦巻く場所だった。


 歩いているだけで、周囲の視線が俺の『地殻の踏破者』に集まるのがわかる。  この王都には、処刑人よりも強く、グレイが言っていた「世界の理不尽」を体現するような奴らがゴロゴロしているはずだ。


「……おっと」


 突然、目の前を豪華な馬車が横切った。

 その馬車の背後に、不気味なほど音もなく「歩いて」ついていく影。黒い鎧。だが、昨晩見た量産型とは違う。  そのマントは、夜の闇よりも深い『漆黒』に染まっていた。


(……挨拶回りにしては、早すぎる登場だな)


 俺の「王都の散歩」は、どうやら最初からハードモードになりそうだ。

 

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