第2話:全職員YouTuber化計画
村長室のドアを開けた瞬間、漂ってきたのは線香の匂いではなく、甘ったるいココナッツの香りだった。ボロボロの革張りソファには、アロハシャツの上にドテラを羽織った男、轟村長がふんぞり返っている。元・大手広告代理店のクリエイティブディレクター。バブルの残り香を全身にまとった五十五歳。
「遅いよ、片桐ちゃん。タイムイズマネー、時は金なり、時は来たれりだ」
「定時後です、村長。それに、暖房の設定温度が高すぎます。光熱費削減の通達を出したのは村長ご自身でしょう」
「固いこと言うなよ。熱気だよ、熱気! これからの我々に必要なのはパッションだ!」
轟は机の上で手を叩いた。そこには、模造紙に極太のマジックで書かれた、意味不明な企画書が広げられていた。
『起死回生! 姥捨村・全職員YouTuber化計画 ~バズって稼いで一億円~』
片桐は眼鏡の位置を直し、冷静にその文字列を凝視した。そして、静かに言った。
「……正気ですか?」
「大マジだとも。いいか片桐ちゃん、今の世の中、金を集めるのは『信用』じゃない。『注目』なんだよ」
轟は立ち上がり、窓の外の暗闇を指さした。
「我が村には何もない。だが、ネットの世界では『何もない』が武器になる。秘境、限界集落、絶滅危惧種のジジババ! これらをコンテンツとして世界に発信するんだ!」
「却下です」
片桐は即答した。
「地方公務員法第三十三条、信用失墜行為の禁止。公務員が職務の品位を損なうような動画投稿など、認められるはずがありません。第一、誰がやるんですか」
「君だ」
「は?」
「君を本日付けで、新設する『デジタル戦略係』の係長に任命する。部下は一名。ノルマは登録者数百万人だ」
片桐は膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で自治法を握りしめて耐えた。
「そ、総務課の仕事はどうするんですか! 決裁は! 議会対応は!」
「兼務でいいよ。どうせ暇だろ?」
「暇なわけありますか! 私は毎日、崩れそうな庁舎の修繕見積もりと、熊の出没情報の更新で手一杯なんです!」
「安心しろ。強力な助っ人を用意した」
轟はニヤリと笑い、一枚の書類を片桐に手渡した。そこには『地域おこし協力隊 活動報告書』とあり、名前の欄には『淀木(よどぎ)リム』とだけ記されていた。住所も、前職も、年齢さえも空欄だ。
「先週、ふらっと村に来てな。『住む場所をくれたら村を救ってやる』なんて言う面白い子だ。旧校舎の視聴覚室に住まわせている」
「身元不明じゃないですか! コンプライアンスはどうなってるんですか!」
「細かいことは気にするな。彼女は『デジタルの天才』らしいぞ。さあ、行け片桐! 日本の夜明けは近いぜよ!」
村長が投げたアロハシャツのボタンが弾け飛び、片桐の額に当たった。反論しようとした口を閉ざし、片桐は深く一礼した。上司の命令は絶対。地方公務員法第三十二条、法令等及び上司の職務上の命令に従う義務。片桐守、三十歳。彼はこの瞬間、地獄への片道切符にハンコを押してしまったのだ。
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