第二十五話 役割
翌朝、診療所の前は静かだった。
夜明けの空気がまだ残っている。
冷えは引いているが、温もりには届かない。
村はもう動き始めているのに、
診療所の前だけ、時間が一拍遅れている。
馬車の跡は残っていなかった。
轍も、蹄の痕もない。
昨日ここにあった黒い馬車は、
最初から存在しなかったかのように消えている。
それが、かえって不自然だった。
扉を開けると、風が入った。
レオンは何も言わず中に入り、
湯を替え、
包帯を切る。
昨日と同じ手順。
一つも省かない。
その背中は、
昨日の出来事を否定するようでもあり、
受け止めたまま続ける覚悟のようでもあった。
リナは器具台の脇に立つ。
同じ位置。
医師の動線から半歩外れた場所。
だが、胸の中は同じではない。
ここに立っていていい理由と、
ここに立ち続ける覚悟は、
同じ形をしていない。
最初に来たのは、子どもだった。
「先生」
声に迷いがない。
「どうしましたか」
「転んだ」
膝の擦り傷。
砂が入り、赤く滲んでいる。
泣いてはいない。
だが、強がっている。
洗い、
薬を塗り、
布を当てる。
「今日は走らない」
「うん」
それだけで終わる。
子どもが出ていく。
扉が閉まり、
診療所にまた静けさが戻る。
リナは自分の手を見る。
血はついていない。
剣もない。
それでも、
確かに役に立った感触だけが残る。
胸の奥が、わずかに揺れる。
それが救いなのか、
しがみついているだけなのか、
まだ分からない。
昼前、村の男が入ってくる。
男はリナを見て、
一瞬だけ言葉を失う。
視線が迷い、
すぐに逸れる。
英雄の噂より先に、
若い女の輪郭が目に入ったのだと、
リナは理解する。
悪意ではない。
だからこそ、胸の奥が少し冷える。
「先生、昨日……」
「怪我ですか」
「いや」
男は言葉を探す。
「……黒い馬車が来ていたと」
「来ていました」
「用件は」
「診療ではありません」
それ以上は続かない。
男はそれ以上を聞かない。
リナも、それ以上を言わない。
午後、腰の曲がった老人が来る。
「楽だ」
「無理はしていませんか」
「していない」
「なら、続けてください」
薬は出さない。
包帯もいらない。
老人は帰り際、ふと立ち止まる。
「先生は、前にいたことがあるのか」
「どこに」
「遠くに」
レオンは答えない。
沈黙が落ちる。
それは拒絶でも肯定でもない。
ただ、余分な意味を与えない沈黙だった。
夕方、馬車の音がした。
今度は、はっきりと。
三人。
足音が揃っている。
イリスが先頭に立っている。
昨日と同じ外套。
同じ距離。
同じ立ち方。
以前にも、ここに来ていた。
診療のためではなく、
判断が置かれる前提で立つ女。
「回収に来ました」
感情のない声。
手続きの言葉。
リナの背筋が、わずかに強張る。
イリスは続ける。
「英雄は、国家の資源です」
「個人の逡巡は、不要です」
正しい言葉だった。
否定しづらい言葉だった。
反論が浮かぶより先に、
胸の奥で何かが静かに崩れる。
その瞬間になって、
リナの視線が自分の足元へ落ちる。
剣は、ここにはない。
だが、
思考の中にはある。
――剣を取ったほうがいいのかもしれない。
浮かんだ瞬間、
安堵が混じる。
そうすれば迷わなくていい。
役割は明確だ。
戦えばいい。
それが、
ずっとやってきた選択だった。
だからこそ、
胸の奥が少し痛む。
そのとき、レオンが言った。
「英雄の席は、国が用意できます」
一拍。
「ですが」
間が落ちる。
「役割は、自分で決めていい」
慰めではない。
命令でもない。
逃げ道を塞ぐ言葉だった。
イリスは口を挟まない。
思想の違いではなく、
前提の違いだからだ。
「剣を持つことも、否定しません」
「ただ」
イリスの視線が、リナに向く。
「ここで剣を持たないあなたも、
確かに、役に立っていました」
その言葉が、
一番、残酷だった。
否定ではない。
引き留めでもない。
選択を、
完全に彼女の手に戻す言葉だった。
リナは、ゆっくりと馬車に乗る。
扉に手をかける。
御者が手綱を取る。
まだ、動いてはいない。
戻れないことだけが、先に分かる。
そのとき、レオンは一度、呼吸を止めた。
言う必要はなかった。
言わずに済ませることも、できた。
だが、口が先に動いた。
「リナ」
名を呼ぶ。
業務の声ではない。
患者に向ける声でもない。
彼女に向けた、私情だった。
「少し、寂しくはなります」
一瞬、空気が止まる。
言ってから、
レオン自身がそれを自覚する。
判断でも、整理でもない。
引き留める言葉でもない。
ただの、私情だ。
取り消さない。
言い直さない。
御者が合図を受け、
手綱が鳴る。
馬車が、動き出す。
車輪が砂を噛み、
診療所から距離が生まれる。
今度こそ、声は届かない。
リナは振り返らない。
だが、胸の奥に、
剣を握る形とは違う何かが、
確かに残った。
それが何なのか、
まだ名前はつけられない。
ただ、
剣だけでは切れないものだということだけは、
はっきりしていた。
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