第二十四話 奪われたものの名
朝の診療所は、静かすぎるほど静かだった。
夜の冷えはもう引いている。
石床に残っていた温度も、足裏には伝わらない。
風は弱く、扉の隙間を鳴らすこともない。
それなのに、扉を開けた瞬間、
空気が一拍遅れて入ってくる。
澄んだ空気だった。
誰もいないはずの時間帯に、
すでに整えられた場所へ足を踏み入れたような感触。
診療所は、いつもそうだ。
人を迎える前に、空気だけが先に待っている。
リナは、器具台の脇に立っていた。
昨日と同じ位置。
医師の動線から、半歩外れた場所。
手を伸ばせば届くが、踏み込みすぎない距離。
意識して選んだわけではない。
だが、何度も立つうちに、
ここが一番邪魔にならないと身体が覚えた。
そこに立つ理由は、もう言葉にできる。
補助ができる。
作業を分けられる。
沈黙を共有できる。
だが、
言葉にできたことで、重くなったものも確かにあった。
戸が開く。
足音が一つ。
軽くも、重くもない。
迷いのない歩幅。
レオンは、その時点で気づいていた。
椅子を見ない視線。
室内を一巡する速度。
最初から、立ったままで話を終える前提の距離。
以前にも、ここに来ている。
診療のためではなかった。
相談でも、依頼でもない。
答えが返らなくても構わない、
判断を置くためだけに立つ人間の立ち方。
あのときと同じだ。
名乗りは遅く、
言葉は短く、
感情を一切、足さない。
――前に、何度か来ていた女だ。
「……久しぶりね、レオン」
名を呼ぶ。
呼び捨て。
距離を詰めるでもなく、
突き放すでもない。
その呼び方そのものが、
関係の長さを示していた。
「久しぶりだ」
レオンは一拍だけ置いて返す。
記憶を辿ったわけではない。
確認する必要もなかった。
同じ場所に、
同じ理由で立つ人間は、そう多くない。
リナは顔を上げない。
だが、空気が変わったのは分かった。
診療所の中に、別の判断基準が持ち込まれた感触。
視線が、こちらを測っている。
人を見る目ではない。
感情を探る目でもない。
役割を量る目。
どこに立たせるか。
どこまで任せるか。
切り離すべきか。
そういう判断の前に向けられる視線だった。
「ここを開いたと聞いたときは、正直、疑ったわ」
イリスは診療所を一巡だけ見る。
器具の配置。
布の畳み方。
床に引かれた、無意識の動線。
すべてを一度で把握する。
「……なるほど」
短い言葉が落ちる。
評価だった。
肯定でも否定でもない。
「あなたらしい」
懐かしさはない。
再会を喜ぶ気配もない。
事実確認のあとに置かれた、
乾いた結論だった。
「相変わらず、一人で判断している?」
「している」
即答だった。
迷いも、含みもない。
イリスは小さく息を吐く。
「そう。なら、話は早い」
視線が、リナに移る。
一瞬で、全体を見られる。
背丈。
立ち方。
手の置き場。
視線の高さ。
「あなたが、ここにいる理由は?」
問いではない。
確認だ。
リナは答えない。
答える権限がないことを、理解している。
イリスはレオンに視線を戻す。
「……変わったわね」
誰が、とは言わない。
「あなたは、誰の意見も借りない医師だった」
「切り分けて、決めて、引き受ける。
それを一人でやれたから、あなたは――」
言葉を切る。
「一人で背負える医師だった」
胸の奥で、何かが軋む。
イリスは続ける。
「でも今は違う」
視線が、再びリナへ。
「あなたは、彼の仕事を奪っている」
空気が止まる。
音が消えるわけではない。
だが、次の呼吸が遅れる。
リナは息を吸う。
吐けない。
奪っている。
役割を。
判断を。
反論が浮かばない。
否定もできない。
イリスの声には、怒りがない。
嫉妬もない。
評価として、正しい言葉だけが並ぶ。
「判断を支える。
作業を分ける。
沈黙を共有する」
それは、
リナが誇りに思いかけていたことだった。
「それは、一見、優しい」
イリスは言う。
「でも、それは医療じゃない」
「判断を遅らせる」
リナの中で、何かが崩れる。
助けているつもりだった。
邪魔ではないと思いたかった。
だが、
奪っていないと証明する術がない。
レオンは、何も言わない。
手を洗い、
布を取り、
次の準備に移る。
診療は、続いている。
「反論しないの?」
「説明しない」
短く、切る。
イリスは一瞬、黙る。
「……ええ」
納得はしていない。
だが、理解はしている。
「あなたは、いつもそうだった」
イリスは踵を返す。
扉に手をかけ、
最後に一言だけ置く。
「イリスよ」
名乗りは、今さらだった。
「覚えなくていい」
以前、ここで聞いたのと同じ言葉だった。
「その子が、
一人で背負う覚悟を持てるといいわね」
振り返らない。
扉が閉まる。
音は小さい。
だが、診療所の中に、確かな空洞が残る。
リナは、動けない。
器具を持ったまま、立っている。
「……先生」
声が、かすれる。
レオンは答えない。
代わりに、手を差し出す。
次に使う器具。
業務だ。
いつも通りだ。
リナは、それを受け取る。
指が、震えている。
彼女は奪っていない。
だが、
奪っていないと言い切る強さも、まだない。
患者が来る。
処置が終わる。
誰も、今の話を知らない。
夕方、最後の患者が帰る。
リナは布を洗い、干す。
動作は正確だ。
だが、胸の奥が、ずっと痛い。
「……先生」
もう一度、呼ぶ。
レオンは灯りを落とす。
「帰るぞ」
それだけだ。
外は冷えている。
リナは半歩遅れて歩く。
ここにいていい理由は、ある。
だが、
ここにいる覚悟は、まだ足りない。
診療所の灯りが消える。
暗闇の中で、
彼女は、答えのない一歩を踏み出した。
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