第6話 再開 2


ドアベルが、控えめに鳴った。

金属が触れ合う短い音。

それだけで、由衣とみなみはほぼ同時に顔を上げた。

午後の光が、入口から細く差し込んでいる。

その中に、男が一人、輪郭を切り取られて立っていた。

 

男は、店内を一度だけざっと見渡した。

視線は低く、必要な場所だけを撫でるように確認する。

鋭さはあるのに、威圧感はない。

歩き出すと、靴音はやけに静かだった。

黒のジャケット。

飾り気のないシャツ。

ジーンズ。どこにでもいるような服装。

 

――思っていたより、小柄。

 

それが、みなみの最初の感想だった。

もっと、テレビドラマに出てくるような“いかにも”な人物を想像していた。

筋肉質で、怖そうで、眉間に皺を寄せて、言葉少なそうな男。

目の前の男は、違う。

背は高くない。

肩幅も、過度に広いわけではない。

雰囲気も、どこか落ち着いている。


(……え?)

 

隣で、由衣が小さく息を呑んだ。

ほんの一瞬、言葉を失って――

次の瞬間には、感情が追いついた。

 

「……っ!」

 

椅子を引く音が、店内にやや大きく響く。

由衣は、反射的に立ち上がっていた。

自分でも驚くほど早く。

 

「あ……あなたは……!」

 

声には、抑えきれないものが滲んでいた。

驚き。

喜び。

安堵。

いくつもの感情が、喉の奥で混ざって声になった。

 

呼ばれた男は、わずかに目を見開く。

少しだけ驚いた顔。

だが、すぐに表情が緩み――警戒の色が抜けた。

 

「……無事だったか」

 

「はい……はい!」

 

由衣は、何度も頷いた。

目尻が、ほんのり潤んでいる。

そのやり取りを見て、みなみは完全に取り残される。

 

(……知り合い? え、そんな……)

 

二人の間に、“過去”がある。

それだけは、素人目にも分かった。

 

男――葉佩九郎は、由衣の様子を見て少しだけ困ったように頭を掻いた。

 

「……元気そうで何よりだ」

 

「貴方が助けてくれました」

 

由衣は、深く頭を下げる。

そのまま顔を上げ、安堵の笑みを浮かべた。

 

「私……前に言ったでしょ。悪い人達に捕まったって」

 

その言葉に、みなみの身体が、びくりと固まった。

 

「……うん」

 

「その時に……助けてくれた人」

 

由衣ははっきりと言う。

 

「この人が、助けてくれたの。

 お元気そうで……本当に、よかったです」

 

九郎は、その視線をやや持て余すように逸らした。

 

「……無事なら、それでいい」

 

「いいえ……あなたが助けてくださらなければ……」

 

そこで、由衣は言葉を切り、隣に座るみなみへ顔を向ける。

 

「こちらが……私の友人です。今回、相談させていただいたのは……彼女の件で……」

 

紹介され、みなみは慌てて姿勢を正した。

目の前の男を、まじまじと見つめる。

 

思っていたよりも、ずっと「普通」だった。

どこにでもいそうな、疲れ気味の社会人。

でも、目だけが違う。

 

鋭いのに、冷たくない。

刃物じゃなくて、「よく研がれた道具」のような目だった。

 

(……この人が……?)

 

“戦闘屋”。

頭の中にあった言葉と、目の前の男の姿が、なかなか結びつかない。

 

九郎は、みなみの視線に気づき、軽く会釈した。

 

「葉佩九郎だ。初めまして」

 

「あ……」

 

みなみは、慌てて頭を下げる。

 

「さ、佐伯みなみです……」

 

声が少し震える。

自覚して余計に緊張する。

 

「よろしく」

 

九郎の声は、低いが柔らかかった。

圧迫感はない。

ただ日常のトーンで話しているだけなのに、どこか「聞き取りやすい」。

 

九郎は、二人の向かいの席に腰を下ろした。

背もたれに深くもたれず、かといって警戒しきった前のめりでもない。

動作は落ち着いていて、不自然なところが一つもない。

だからこそ、逆に「場慣れ」が透けて見える。

 

「……それで」

 

短く切り出した声に、空気が少しだけ張りつめる。

 

「……はい」

 

由衣の表情が、きゅっと引き締まる。

 

「この娘が……みなみが、ストーカー被害に遭ってて」

 

九郎の目が、一瞬だけ細くなった。

睫毛の影で、感情がわずかに揺れる。

だが、一般人の前では、表には出さない。

 

「……話してもらっていいか」

 

「……はい」

 

みなみは、カップをそっとテーブルに置き、両手を膝の上で握りしめた。

緊張で指先が汗ばむ。

喉が渇くのに、もうコーヒーは飲めない。

それでも、口を開いた。

 

「私……彼氏が……」

 

そこから、断片的に、だが必死に言葉を紡いでいく。

 

話している間、九郎は一度も遮らなかった。

相槌は最低限。

頷きも小さい。

ただ、「聞いている事実」だけを、確実に示す聴き方だった。

 

由衣は、その横顔を見て胸の奥が熱くなる。

 

(……やっぱり、この人だ)

 

怖い人じゃない。粗暴でも、冷たくもない。

「助ける側」の人だ。

 

話し終えたみなみは、小さく息を吐いた。

絞り出すような声で付け足す。

 

「……こんな話、すみません」

 

「謝る必要はない」

 

九郎は、即座に否定した。

 

「困ってるなら、それで十分だ」

 

その一言に、みなみは、ぽかんとしたように目を見開く。

 

(……優しい)

 

危険な匂いは、確かにある。

それでも、それ以上に――

頼っていい人だ、と直感した。

 

由衣がそっと口を開く。

 

「九郎さんは私にとって、正義のヒーローのような方です」

 

「……やめてくれ」

 

九郎は、ほんの少しだけ照れたように視線を逸らした。

 

「大げさだ」

 

「本当の事です」

 

由衣は、柔らかく笑う。

 

喫茶店の中で、三人の間の空気が、少しだけ和らいだ。

みなみは、その様子を見て思う。

 

(……この人なら)

 

まだ怖い。

けれど――一人じゃない。

その事実だけで、胸の奥の重さが、すこし軽くなった気がした。

 

喫茶店のざわめきは変わらない。

でも、このテーブルの上だけは、はっきりと「何か」が動き始めていた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

喫茶店の空気が、ほんの少しだけ変わった。

さっきまで「初対面」のぎこちなさが勝っていたテーブルに、別種の緊張が降りてくる。

九郎は、背もたれに軽く体重を預け直し、みなみに視線を向けた。

その目から、さっきまでの柔らかさがすっと引いていく。

 

由衣は、その変化に瞬時に気づいた。

 

(……あ)

 

あの時と同じだ。

港。

倉庫。

暗くて、冷たくて、怖い場所で見た、“仕事の顔”。

 

みなみは、理由も分からず背筋を伸ばしていた。

無意識に、姿勢が正される。

 

「順番に聞くぞ」

 

九郎の声は低いが、穏やかだ。

責める調子も、過剰な同情もない。

ただ、必要な情報を集めるための声。

 

「最初に接触されたのは、いつだ」

 

「……春休み前です。最初は、SNSで……」

 

「アカウントは残ってるか?」

 

「……はい。ブロックしても、別の名前で……」

 

九郎は頷く。

 

「大学構内での接触は?」

 

「あります。声をかけられたことも……」

 

「帰宅ルートは固定か?」

 

「……はい。時間も……だいたい同じで……」

 

質問は短く、正確だった。

みなみが言葉を探して詰まると、九郎は急かさない。

待つ。

それだけ。

焦らせないその態度が、逆に「聞き逃さない」と約束してくれているようだった。

 

由衣は、その横顔を見て、単純に感心していた。

 

(……すごい)

 

感情だけを切り離しているのに、冷たくない。

同情に溺れず、現実だけを拾い上げていく。

 

「彼氏の件」

 

短い一言で、みなみの肩がびくりと震えた。

 

「……目の前で、襲われました」

 

「犯人は?」

 

「……たぶん……同じ人です」

 

「警察には?」

 

「……怖くて……」

 

九郎はそこで、一度だけ息を深く吐いた。

 

「分かった」

 

それ以上、理由を詰めない。責める言葉もない。

 

「今の状態は正直、危ない」

 

「……っ」

 

みなみの顔色が、明らかに青ざめる。

由衣は思わず口を開きかけ――それでも、途中で飲み込んだ。

 

九郎は淡々と続ける。

 

「ただし、まだ最悪じゃない」

 

「……え?」

 

「相手は、今“支配を楽しんでいる段階”だ」

 

淡々とした口調のまま、言葉だけは鋭い。

 

「だから、見せつける行動を取っている。

 彼氏を狙ったのも、その延長だ」

 

みなみは、唇を強く噛みしめた。

 

「……じゃあ……」

 

「“黙って耐える”のが、一番危険だ」

 

言い切る声。

 

由衣は、その横顔を見て、胸がきゅっと締め付けられる。

 

(……葉佩さん……)

 

怖いくらい現実的で、頼もしすぎて、目を逸らしたくなる。

その感覚を意識した途端、由衣の頬がじわりと熱くなった。

 

(……かっこいい……)

 

自覚した瞬間、余計に恥ずかしくなる。

ちゃんとみなみのことを考えなきゃ、と慌てて意識を戻す。

 

みなみは、ふと横目で由衣を見た。

頬の赤さと、視線の泳ぎ方に気づいて――

何かを察したが、何も言わない。

 

九郎は、由衣の視線に気づき、ほんの一瞬だけ首を傾げた。

 

「……どうかしたか?」

 

「い、いえ……!なんでもありません……!」

 

由衣は慌てて視線を逸らす。

九郎は、深く追及しないまま話を戻した。

 

「状況は把握した」

 

「……」

 

「引き受ける」

 

短く、はっきりと。

その一言で、みなみの肩から力が抜けていく。

 

由衣は、胸の奥でそっと思う。

 

(……やっぱり)

 

この人は、自分にとって――

正義のヒーローだ。

 

喫茶店の外では、何も知らない街がいつも通りに動いている。

だが、この小さなテーブルの上では、確かに“歯車”が噛み合い始めていた。

 

九郎はテーブルの上で指を組み、改めてみなみを見る。

視線には、もう迷いがない。

 

「全部、任せろ」

 

強くも、優しくもないトーン。

ただ「決まった事実」を告げる声だった。

 

みなみの喉が、こくりと鳴る。

 

「……本当に……?」

 

「ああ」

 

即答。

 

由衣は、その横顔を見つめたまま息を詰めている。

胸の奥が、落ち着かないほど熱い。

 

(……葉佩さん……)

 

九郎は続ける。

 

「君がやることは、何もない」

 

「……」

 

「連絡も、対応も、全部こちらでやる」

 

みなみの指が、カップの縁からそっと離れる。

 

「……私、逃げなくていいんですか」

 

「逃げる必要はない」

 

九郎は視線を外さない。

 

「終わらせよう」

 

その言葉には、暴力的な響きはない。

ただ、“もう日常に戻っていい”という意味だけが、静かに沈んでいた。

 

由衣は、思わず口を開く。

 

「葉佩さん……」

 

「大丈夫」

 

遮るように――だが、柔らかく。

 

「君たちが心配する必要はない」

 

「……」

 

由衣は、何も言えなくなる。

自分が助けられた時と、何も変わっていない。

ただ、あの時は泣いていて、今は隣で見ていられる。

 

みなみは、勇気を絞って問いかけた。

 

「……どうやって……?」

 

「知る必要はない」

 

即答。

 

「知れば、眠れなくなる」

 

「……」

 

「知らなければ、日常に戻れる」

 

九郎は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。

 

「こちらの“ツテ”を使う」

 

「……」

 

「表に出ない場所で、二度と戻ってこられない形にする」

 

そこまで言って、言葉を切る。

それ以上詳しく説明しない沈黙そのものが、「優しさ」だと知っている。

 

由衣は、その意味を理解している。

みなみも、本能的に感じ取っていた。

 

みなみは、深く息を吸い、吐いた。

 

「……私……」

 

「……」

 

「……生きてて、いいんですよね」

 

震える問い。

 

九郎は、一切迷わず答えた。

 

「当たり前だ」

 

由衣の胸が、きゅっと締まる。

 

(……同じだ)

 

あの夜と。

泣きながら「生きてていいのか」と問うた自分に向けてくれた言葉と。

 

九郎は立ち上がる。

 

「今日は、ここまでだ」

 

「……え?」

 

「これ以上話すと、君たちが“関係者”になる」

 

由衣は、はっとする。

みなみは慌てて立ち上がり、深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます……」

 

「仕事だ。礼は要らない」

 

九郎は、少しだけ表情を緩める。

 

「戻って、普通に生活しろ」

 

「……」

 

「それが報酬だ」

 

由衣は、頬を赤くしたまま深く頭を下げた。

 

「……葉佩さん、本当に……」

 

「……また連絡する」

 

短い言葉。それだけで十分だった。

 

喫茶店を出る。

外の街は、相変わらず平和だ。

でも、見えないところでは、すでに別の歯車が回り始めている。

それは、みなみの“日常”を取り戻すための回転だった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

街は、相変わらず平和だった。

大学から駅へ続く道。

人の流れ。

信号待ちの列。

コンビニの自動ドアの開閉音。

葉佩九郎は、その風景の一部として歩いていた。

目立たない。

急がない。

立ち止まらない。

 

(……来る)

 

確信は、直感に近かった。

だが、根拠は十分積み上がっている。

九郎の視線は、正面ではなく、「一定の距離を保ち続ける影」を捉えていた。

由衣やみなみが歩いているエリアから、少し離れた位置。

それでいて、決して途切れない存在感。

 

(……だいたい、こういう手合いだ)

 

気配は薄いようで、妙に濃い。

人の流れに“馴染みきれない”。

――視線が、刺さる。

 

一度だけ、振り返った瞬間。

目が合った。

 

すぐに目を逸らされる。

だが、もう遅い。

 

(……捕まえた)

 

九郎は歩調を変えない。

足の速さも、進路も、そのまま。

 

街は、何も知らないまま続く。

ストーカーの男は、「見られたこと」に気づいていない。

それが、致命的な差だった。

 

九郎はスマートフォンを取り出し、画面を一瞥する。

 

(……一致)

 

由衣の話。

みなみの証言。

時間帯。

距離感。

立ち位置。

――すべてが、目の前の影に重なる。

 

(……ここまでだ)

 

怒りはない。

憐れみもない。

ただ、「終わらせる段階」に入ったという理解だけ。

 

九郎は進路をほんの少し変え、人混みの向こうへと溶けていった。

男は、気づかない。

それが、最後の油断だった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

その日の夕方。

みなみは、由衣と並んでキャンパスの外を歩いていた。

 

「……ねえ」

 

「うん?」

 

「最近……」

 

由衣が先に続きの言葉を置く。

 

「……何も、ないね」

 

二人は、互いに顔を見合わせた。

怖さは、まだ残っている。

振り返る癖も抜けない。

それでも――

「張り付いていた視線」が、消えている。

理由は知らない。

教えられてもいない。

ただ、街が、確かに「前の形」に戻りつつある。

 

 

その頃。

九郎は、人知れず電話を切った。

短い会話だった。

名前は出ない。

場所も出ない。

 

「……終わった」

 

それだけ告げて、通話を切る。

ジャケットの裾が、風に揺れた。

九郎は、そのまま街の中へ溶け込んでいく。

誰にも知られず。

感謝も、称賛もいらない。

日常を、元の位置に戻しただけ。

それが戦闘屋、《レイヴン》の仕事だった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

夕方の喫茶店は、昼とは違う静けさがあった。

仕事帰りの客がぽつぽつと入り、

外の光はオレンジ色に傾いている。

カップの縁に当たるスプーンの音が、妙に大きく響いた。

 

由衣とみなみは、窓際の席に並んで座っていた。

二人とも、落ち着かない。

時計を何度も見るわけでもなく、ただ落ち着く場所を探すように視線を彷徨わせている。

 

ドアベルが鳴った。

由衣は、反射的に顔を上げる。

みなみも同時に入口を見る。

 

九郎が入ってきた。

前と変わらない服装。

変わらない歩き方。

なのに――

二人の胸の奥が、一斉に軽くなる。

 

「……葉佩さん」

 

由衣が、小さく呼んだ。

九郎は軽く手を挙げて応え、二人の前に腰を下ろす。

座ると、周囲を一度だけ確認してから、短く言った。

 

「終わった」

 

それだけ。

由衣の肩から、力が抜け落ちる。

 

「……本当ですか……?」

 

「ああ」

 

みなみは、言葉を失っていた。

ただ、九郎を見つめる。

 

九郎は、声の調子を変えずに続けた。

 

「相手は、二度と君の前には現れない」

 

「……」

 

説明はそれだけだった。

理由も、経緯も、場所も、語らない。

 

由衣は、その意味を察して何も聞かない。

みなみも、本能的に「聞かない方がいい」と分かっていた。

 

――もう、終わった。

 

「……あ……」

 

みなみの喉から、かすれた息が漏れる。

張り詰めていた何かが、一気に崩れ落ちる音が、胸の中でした気がした。

 

「……よかった……」

 

声が震える。

視界が、ぼやける。

 

「……本当に……もう……」

 

言葉にならない。

みなみは、両手で顔を覆った。

肩が、小刻みに揺れる。

泣き声は、上げないように必死で抑えている。

それでも、涙は止まらない。

 

由衣は、すぐに席を立ち、みなみの隣に寄った。

背中に、そっと手を置く。

 

「……大丈夫だよ……」

 

「……っ……」

 

みなみは、何度も頷く。

涙がテーブルにぽつぽつと落ちる。

 

「……怖かった……」

 

「……うん」

 

「……ずっと……誰にも言えなくて……」

 

「……うん」

 

由衣は、ただ聞く。

否定も、励ましも急がない。

九郎は、その様子を少し離れた位置から見ていた。

表情は変わらない。

ただ、視線の温度だけが、わずかに柔らかくなっている。

 

(……これでいい)

 

それだけで、仕事は終わりだ。

 

しばらくして、みなみが顔を上げた。

目は赤いが、瞳の揺れ方が違う。

さっきまでの“怯え”とは別の色をしている。

 

「……ありがとうございます……」

 

「礼は受け取った」

 

九郎は、いつもの調子で言う。

 

「元に戻っただけだ」

 

「……」

 

みなみは、深く頭を下げた。

 

「……生きてていいって……思えました」

 

「それが普通だ」

 

即答。

 

由衣は、その横顔を見て、胸がまた熱くなる。

 

(……やっぱり……)

 

この人は、誰にも見えないところで“終わらせる人”だ。

 

九郎は、椅子から立ち上がる。

 

「これで終わりだ」

 

「……あ……」

 

由衣は、思わず声を出していた。

九郎が、顔だけ振り返る。

 

「……何かあったか?」

 

「……その……」

 

言葉を探す。

胸の中が、少しだけ苦しい。

喫茶店の窓の外では、夕暮れの街が、何事もなかったように動いている。

 

由衣は、勇気を振り絞るように、もう一度口を開いた。

 

「……葉佩さん……」

 

その声で、時間が一拍だけ伸びた。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーー

 

 

夕方の道は、昼の熱をまだ少しだけ残していた。

アスファルトが、淡く橙色に光を返している。

 

みなみは、二人に何度も頭を下げてから先に帰った。

「先に行くね」と、少しだけ明るすぎる声で言って。

気を使っているのは、はっきり分かった。

その背中が人混みに紛れ、完全に見えなくなるまで見送ってから、由衣はゆっくりと歩き出した。

だが、すぐに足の置き場を見失ったみたいに、歩調が乱れる。

 

「……」

 

何か言わなければ、と思う。

でも、言葉が出てこない。

 

九郎は、隣を歩きながら、由衣を横目で見ていた。

視線はさりげないが、観察は正確だ。

 

(……変わったな)

 

歩き方。

人との距離の取り方。

視線が、ちゃんと前に向いていること。

救助当時は、無理もないが、縮こまって、泣いて、何も見えていなかった。

今は違う。

怖さは残っているが、“飲み込まれて”はいない。

 

それに気づき、九郎は胸の奥で静かに息を吐いた。

 

(……ちゃんと、戻れた)

 

それが、何よりだった。

 

「……あの」

 

由衣が、落ち着かない様子で口を開く。

指先が、バッグの紐を何度もいじっている。

 

「今日は……ありがとうございました」

 

「もう礼は大丈夫だ」

 

即答。

 

「終わった話だ」

 

「……はい」

 

それでも、由衣は黙りきれない。

歩きながら、ほんの少しだけ距離を詰める。

近づきすぎないように、でも離れすぎないように。

 

「……でも……」

 

「……」

 

「葉佩さんと……こうして話せると思ってなくて……」

 

声が、少しだけ上ずる。

 

「……変ですか」

 

「……いや」

 

否定は短いが、切り捨てではない。

由衣は、ほっとしたように息を吐いた。

それでも視線は落ち着かない。

 

「私……ちゃんと、普通に生活できてます」

 

「見れば分かる」

 

由衣は、驚いたように顔を上げる。

 

「……本当ですか」

 

「ああ」

 

九郎は前を見たまま続けた。

 

「ちゃんと日常を歩けてる」

 

「……」

 

「泣いてる目を、していない」

 

「……っ」

 

由衣の胸が、きゅっと鳴る。

 

(……見てたんだ)

 

言葉にされると、簡単な一文なのに。

それでも、その一文に、自分の“今”をちゃんと肯定された気がした。

 

「……私……」

 

由衣は、一歩だけ遅れて歩きながら、言葉を探す。

 

「葉佩さんと……また、話せたら……」

 

「……」

 

「いえ、その……仕事とかじゃなくて……」

 

慌てて言い直す。

自分でも、何を言いたいのか上手くまとまらない。

ただ、「繋がっていたい」という気持ちだけが先走る。

 

九郎は、歩みを少しだけ緩めた。

完全に足を止めないところが、彼らしかった。

 

「……佐倉」

 

「はい……!」

 

呼ばれただけで、背筋がしゃんと伸びる。

 

「君は、もう戻っていい側だ」

 

「……」

 

「俺のいる場所に、無理に近づく必要はない」

 

「……」

 

優しい声だった。

突き放すための言葉じゃない。

だからこそ、余計に胸に刺さる。

 

由衣は、少しだけ俯く。

 

「……分かってます」

 

「……」

 

「でも……忘れたくないんです」

 

「……」

 

「葉佩さんが……助けてくれた事」

 

由衣は、立ち止まった。

九郎も、足を止める。

 

夕暮れの道。

人の流れが、二人の脇を途切れることなく通り過ぎていく。

 

「……覚えてるだけでいい」

 

九郎は、静かに言った。

 

「それ以上は、いらない」

 

「……」

 

由衣は、胸の前で手をぎゅっと握りしめ、小さく、でも確かに頷いた。

 

「……はい」

 

沈黙が落ちる。

だが、その沈黙は居心地が悪いものではなかった。

 

九郎は、由衣を一度だけ横目で見て思う。

 

(……大丈夫だ)

 

この子は、もうちゃんと歩ける。

それを確認できたことに、静かな安堵を覚えた。

 

道は続いている。

二人は並んで、ゆっくりと歩き出した。

 

やがて、由衣が住む小さなアパートの前に辿り着く。

玄関前で一度俯いたあと、由衣は意を決したように顔を上げた。

 

「……あの! 私の部屋に寄っていきませんか?」

 

上げた顔は、夕陽に照らされて真っ赤に染まっていた。

照れている色と、夕焼けの赤が混ざって――

それでも、瞳だけは真っ直ぐに九郎を見ていた。

 

 

―――――――――――――――――――――――

 

■ 葉佩 九郎(はばき・くろう)

・女に甘い。というより、素で女好き。

・ただし、最低限の線は守るタイプで「壊す」ことはしない。

・仕事以外では、ごく普通の一般常識を持つ。

・戦場と日常の切り替えは上手いが、「完全に切る」ことはできない。

・《レイヴン》としての顔と、「どこにでもいる冴えない男」の顔を使い分ける。

 

■ 名も無きストーカー

・名前は出ない。最後まで“名もなきモブ”扱い。

・九郎の“ツテ”によって、海外の「消耗品」として飛ばされた。

・多分、死ぬ。

・少なくとも、五体満足で日本に戻ってくる未来は、もうない。

 

――誰にも知られないところで、誰にも知られないまま消える影がある。

その影を消すために動く男がいて、

何も知らずに日常へ戻っていく人たちがいる。

それが、この街の裏側で、確かに続いている現実だった。




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